2002年 7月 28(日) |
『悩ませないように』 使徒の働き15:12-21
この会議で、提起された問題は、モーセ律法と割礼が救いの条件か否か、ということでした。ペテロの言葉は、割礼や律法ではなく信仰、と大胆に語りました。
ヤコブはそのペテロの発言を、旧約聖書に裏づけてから、こう判断します。「神に立ち返る異邦人を悩ませてはいけません」と。こうして福音による異邦人の自由が確認されたのでした。しかし一見反するように見える20節のような言葉をヤコブ言っています。それは、会議に参加した使徒と長老たちにも支持されました。
ヤコブは、福音に基づく自由については確固とした原則をもち、20節にあるようなこと、
を救いや教会加入の条件したわけではなく、現実への適用について、穏やかな愛の配慮を訴えたのでした。
「異邦人も信仰によって救われる」といって律法を守るユダヤ人たちを突っぱねるようなことはしなかったのです。正論だけを振りかざして、人が救われるわけではありません。
大切なのは正論を伴う気配り、配慮、そして愛です。余計なことで相手を悩ませないことは私たちの原則でもあります。
私たちの交わりが、正論だけで押し通すものでは、窮屈な場所になると思います。自分の周りの人への配慮、そしてそれが「隣人を愛す」すばらしい掟の、重要な原則になるのではないでしょうか。
私たちの教会も、そのような交わりであるならば、幸いです。
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2002年 7月 21(日) |
『人の心を知る神』 使徒の働き15:1-11
パウロとバルナバによる第一次伝道旅行は終わりを告げましたが、帰り着いて一安心とは行きませんでした。提起された問題は、モーセ律法、とりわけ割礼を「救いの条件」にしたということでした。論点はこの「救いの条件」が必要か否か、ということです。どこまでもユダヤ人の伝統に忠実なユダヤ主義キリスト者は、異邦人にもそれを求めたのでした
。
そしてついに立ち上がったペテロの意見が、ユダヤ主義キリスト者を沈黙させました。15:8,9
「
そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも・・・」と語り、このことは神から出ていることをはっきりと語りました。
互いを批評しあう。互いを裁きあう。そういった姿勢に、聖書は多くのところで警告を与えています。
人間の評価というものは実にあいまいです。しかし、神様の評価は、絶対で、間違えることはありません。そしてその評価は心の評価なのです。Tサムエル16:7には「人はうわべを見るが、主は心を見る。」とありますように、神様の評価は、その人の心です。救いにしても、信仰にしても、見える姿ではなく、見えない心の中が評価されるのです。
私たちの歩みが、人を裁いたり、人をことさらに評価して、優劣を付けたりということに聖書は警告をしています。
現在の私たちにとっても、互いにうわべしか見れない私たちが評価し合い裁き合うのではなく、互いに救いに導かれたものとして、人の心を見られる神の前で、その信仰を全うしていくことができるならば幸いです。
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2002年 7月 14(日) |
『主にゆだねる』 使徒の働き14:19-28
パウロとバルナバによる第一次伝道旅行は終わりを告げました。最後には来た道を戻りながら、自分たちがいなくなっても教会をしっかり守って保って、そして活動していくことができるようにと二人は教会ごとに長老を任命しました。そして「彼らをその信じていた主にゆだねた」のでした。
「主にゆだねる」ということを考えましょう。
第1に、パウロはキリスト者になろうとする人に率直に、そして単純にものを言っています。22節では言葉を濁さずに、「信仰にしっかりとどまるように」「多くの苦しみを得なければ成らない」と、言ったことが分かります。私たちは弱いですが、主に委ねて歩む歩みは率直さと素直さと勇気であるのです。
第2にパウロは人にもゆだねているということです。教会が硬く立てられ、保ち続けることができる様に、まだ小さい教会、まだ、小さな信者たちの群れに、経験も乏しい長老を任命します。パウロは教会を自分のものとせずに、その人たちのもの、そして神様のものとしました。その働きは、私たちも自分だけがすべてをやろうとするのではなく、人に委ねていくものでもあります。そして、それは神に委ねている姿であるのです。
第3に、神が共にいるという確信です。「神が彼らとともにいて行なわれたすべてのこと」と言っているように、すべてに神が伴っていてくださるという確信です。その確信はまさに、主に委ねて歩む姿であるのです。
ぜひ、日々、主の恵みに感謝して、主に委ねて歩んでまいりたいと思います。
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2002年 7月 7(日) |
『むなしいことを』 使徒の働き14:8-18
パウロが癒される信仰のある人を癒すその場面を見ていた人たちの反応は問題でした。
神様の奇蹟を、パウロ自身の持つ超自然のパワーと誤解したのです。このルカオニヤの人々は、普段は共通語のギリシャ語で話していましたので、ルカオニヤ語でおもわず、声を張り上げてパウロ達を「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ。」と言い出しました。2人の伝道者は、神々の顕現と見なされてしまうのです。
ここに記されているのは誤った信仰です。何でもかんでも神に仕立ててしまうのです。真の神様を知らないということがいかにおろかでむなしいことかということが如実に現れます。
真の神様以外を神としてしまうことが、偶像礼拝です。偶像礼拝は、自然の一部や、作った像などを拝むということだけではありません。人間が神となったり、自分自身を神とし
てしまうこと、またお金などの、自分が完全な信頼をおいて「それさえあればほかにはいらない」というような思いそのものも偶像礼拝といえるでしょう。
そして、人を神として拝むこと、真の神様以外を拝むことは「むなしいこと」であるのです。偶像礼拝はむなしいことです。ほかの頼りにならないものを頼ることはむなしいことです。そしてそれは罪であると聖書は教えます。
ですから私たちは、真の神様にのみ信頼するクリスチャンとして、いける真の神様は天地の創造者であることを告白し、クリスチャンでない方は、早く神様に立ち返るように願うものです。
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