ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2002年9月]を短くまとめてのせています。

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2002年 9月30(日)

⇒講壇交換 三一教会 松山 幸生牧師メッセージ

2002年 9月22(日) 『とんでもない』 使徒の働き16:35-40

 パウロたちは、占いの霊に憑かれた若い女奴隷を癒すことによって、その女の主人たちによって身に覚えのない不当な仕打ちを受け、ピリピの牢屋に入れられました。しかし、その牢屋でパウロたちは祈り賛美するそのとき、地震という奇跡が起こったのでした。そこにいた看守は自身で囚人たちが皆逃亡したと勘違いし、自殺しようとしましたが、しかし神様の守りとパウロたちの行動によって牢屋から誰も逃亡しなかったことを契機として看守とその家族は救われたのでした。そうしている中にパウロたちは牢屋から出されるのでした。
 この箇所に書かれている記事は小さな事柄かもしれませんが、じつに不思議な事件です。
 なぜパウロは自分たちが最後までローマ人であることを証しなかったのでしょうか。パウロは自分がローマの市民権を持つものだと明かし、また出来上がったばかりのピリピ教会が、クリスチャンの群れだという理由で迫害を受けないようにと小さい、弱いものに配慮をしたのでした。
 パウロらはこのことによってクリスチャンの立場をピリピ当局の役人に認めさせることによって、町に残されるクリスチャンの小さな群れである家の教会が守られるようにとの配慮であったということではないでしょうか。
 この箇所を読んでいるとマタイ10:16が連想されます。
 パウロたちは、鳩のように素直でありつつ、蛇のようにさとかったということができるでしょう。それもすべて、愛から出ている魂を救う思いと、人々への配慮からでした。
 私たちクリスチャンの歩みは、このようなものでありたいと願います。

2002年 9月15(日) 『救われるため』 使徒16:16-34

 事件の発端は占いの霊に憑かれた若い女奴隷を、パウロは「イエス・キリストの御名」によって、霊を追い出したことからでした。
 とらえられた彼らは、神に祈り、高らかに賛美の歌を歌いました。彼らはつぶやくことをしませんでした。自己弁護もしませんでした。そして起こった大地震。主は、看守の救いの道を備えておられたのです。
 「救われるため」には主イエスを信ることがすべてでした。主イエスを信じるとき完全に救われるのです。そしてその救いというのは、家族にまで影響します。この「あなたもあなたの家族も救われます。」ということばは親の救い、夫の救いが、自動的に、子の救い、妻の救いということを意味していません。「あなたの家族も主イエスを信じれば救われます。」という意味です。しかし、1人の人の救いの影響力は計り知れないでしょう。パウロは看守とその全家族に、「主のことば」を語り、一方看守は、2人の伝道者を自宅に引き取って介抱しました。死から命へ、滅びから救いへ。そして看守と家族が、深夜にもかかわらずバプテスマを受けました。
 主イエスを信じる力は、あらゆることに影響をあたえます。「救われること」は人生のすべてにおいて意味をもっているからです。
 私たちの人生、社会や、人間関係や、仕事や、学校や、あらゆる喜び、悩みや苦しみに支配されているように感じます。しかし本当の人生の意味は、「私たちのいのちは、救われているかどうか」、「救われるために信じているか」が問われているのです。
 そのような人生の本当の意味を見出してそこから離れずに歩み続けていけるならば幸いです。

2002年 9月 8(日) 『聖霊によって』 使徒16:6-15

 パウロは、自分のやり方に固執せず、主の導かれるままに、行動しました。そして、ヨーロッパで最初に導かれたルデヤは、彼女は熱心なだけだったのではなく、心が柔軟にされ、イエス様の救いをまっすぐに受け入れたのでした。共通する点は、「自我が砕かれている」ということです。主が導くとき、私たちは「砕かれて」いなければなりません。これを三つの点で分析してみましょう。
1、 私たちは「自分が砕かれる必要がある」ということです。人は、自我が砕かれるのを嫌います。自分が大切ですし、自分の意見や、考えがあっているとホッとします。しかし、神様の前では、砕かれていないものは喜ばれず、用いられないのです。
2、 「他人がどうでもかまわない」ということです。他の人の意見を聴かなくてもいいということではありません。他の人が自分に対してどう思おうと、神様がどう思うかが大切なので、自分を守る必要がなくなるのです。
3、 「いつでも変更できる」ということです。パウロは自分の行こうとしていた道を、すぐに変えることができました。熱心なユダヤ教徒であったルデヤもすぐさま自分を変えることができたのです。
パウロは、主によって砕かれていた人でした。だから聖霊によって自分が歩む道を自由に選べたのです。私たちも自分たちのやりたいようにではなく、主がなさりたいことに耳を傾けて歩んでまいりたい、我が砕かれたものとして、十字架に自分をかけて死に、キリストにあって、自由に生きるものであるならば幸いです。

2002年 9月 1(日) 『獲得するため』 使徒16:1-5

 さて第2回目の伝道旅行が始まりました。この旅にテモテを同行させるに当たって一つの特筆すべき事柄が書いてあります。それは16:3の後半ですが「彼に割礼を受けさせた。」ということです。
 異邦人への伝道やエルサレム会議という状況の変化で、やっと、割礼などなくても、キリスト者として堂々と歩けるというところまで来たのに、なぜ、パウロが、テモテに割礼を施したのでしょうか。
 私たちが学ぶべき事柄の大切な点ですが、それは、神様、福音、自分の働きということが第一であり、すべてであったからです。Tコリント9:20に「ユダヤ人にはユダヤ人のよう
になりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。」とあります。
 私たちは、クリスチャンとして歩んでいくときいろいろなことで判断に困ることがあるでしょう。そのようなときには、ぜひ「それは自我からきているものなのか、それとも主から来ているものなのか。本当に神様がそれを自分に必要なこととしているのか、それとも「今までが」とか「一般的には」ということに支配されているのか」というようなことを基準に持って歩んでまいりたく願います。
 ひとりひとりが、主が示されるように、主に信頼して歩んでまいりたいと思います。そして、この教会は、「地域に根ざし」教会として、魂を獲得するため、救いに導かれた魂が、豊かに成長するための主の教会として歩んでいけるならば幸いです。