ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2002年12月]を短くまとめてのせています。

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2002年12月29(日) 『感謝のうた』 ルカの福音書1章46節〜56節

 神様が、皆さんに、昨年一年間、与えてくださった恵みは決して小さくないはずです。もし、それが小さなものに感じているならば注意しなくてはならないかもしれません。
 マリヤは、救い主イエスキリストの母になることの意味を、このときはまだ十分に理解していなかったのではないでしょうか。処女でありながら子供を産むことの、社会的な苦悩、また、後の世界の人々がそれをどれだけ本当のこととして理解するなどを考えると恐れとか、不安とか、そういうものが出てくるはずです。しかし、マリヤは賛美し礼拝し、そして感謝をしました。それは、「自分の足りなさと、主がなさった大きなこと」を両方、よくとらえていたからであるということができます。
 私たちも、このようなマリヤの姿に習って、いま、マリヤと一緒に心静めて、この賛歌を、感謝の歌を神様に捧げるひと時を持ちたいと思います。

2002年12月22(日) 『クリスマスの真実』 マタイの福音書2:1-12

 東の国の博士たち、占星術師たちが、イエス様を捜し出したただひとつの目的、それは「礼拝」をささげる為です。何日も何日もかけて旅を続け、危険な状況もあったでしょう。しかし彼らはあきらめず「王を礼拝するのだ」という一心でイエス様のおられる家に向かいました。そして、黄金、乳香、没薬をささげ、礼拝して帰るのです。
 私たちの礼拝に向かう姿勢はこれらの博士たちと比較した時、どのようなものでしょうか。礼拝を捧げるために熱意をもって向かうことができるならば幸いです。
 東の国の博士たちは、どこまで行くのか、いつ着くのか明確にわからないまま、旅の支度をし、イエス様を礼拝するのだという意識だけで出かけたのでした。私たちも何かをするために、とか、何かをあるからではなくて、その教会に生きているイエス様をそこにいる人たちと礼拝できればそれは最高のことなのだ、と知ることは素晴らしいことではないでしょうか。そこには、確かにイエス様はおられます。
 「そうだ、イエス様に会いに行こう」と思ったら、礼拝に参加して、賛美し、献金し、御言葉に耳を傾け、心から王であるイエス様を歓迎し、礼拝してみてください。きっとイエス様に出会うことができるはずです。
 クリスマスとはそもそも、キリストを礼拝するという意味です。そして私たちは今日一緒にイエス様を礼拝しているのです。また、イエス様の父なる神様を礼拝し、私たちに宿っている聖霊なる神様を礼拝しているわけです。これこそ、クリスマスの本当の姿なのでは
ないでしょうか。
 私たちは、イエス様を礼拝するものとしてますます成長していきたいものですね。

2002年12月 8(日) 『ひとりのみどりご』 イザヤ書9:6,7

 「みどりご」というのは、生まれて間もない子供。赤ん坊、という意味です。漢字では、嬰児と書きます。赤ちゃんが生まれる、という預言です。もちろん生まれてくるのはすべて赤ちゃんです。はじめから大人で生まれてくる人はいません。考えてみてください。「ひとりの救世主がうまれる」ではなくて「ひとりのみどりごがうまれる」と言っています。ですからこのひとりの救世主は、人間として、最初は何の力も無い小さな人間の赤ん坊としてうまれるというのです。そしてその「何の力も無い小さな人間の赤ん坊」が「私たちのために生まれる」と言われるのです。
 それでは「ひとりの救世主がうまれる」ではなくて「ひとりのみどりごがうまれる」と言う意味はどういうことでしょうか。生まれてくる救世主は、初めからスーパースターだったわけではなく、お母さんのお乳をもらわないとすぐに死んでしまう弱い存在としてうまれたのです。
 ヨハネ17:5ではイエス様は「世界が存在する前に」神様と一緒に栄光を持っていた方であると書かれています。「力ある神、永遠の父」といわれるお方が、ひとりで生まれてくること無く、私たちと同じ、弱い存在になられて生まれたということです。
 私たちの救い主は、私たちと同じ弱さを知って下さったということです。ですから、イエス様の誕生を祝うこのクリスマスは、そのことを感謝する日でもあるのです。
 そのように私たちの尊い神の一人子が、弱い何の力もない「ひとりのみどりご」として、しかも「私たちのために」、私たちの身代わりになるために、「私たちに与えられた」その神様の哀れみと愛を存分に感じて、このクリスマスの時期を過ごしたいと思います。

2002年12月 1(日) 『まことの光』 ヨハネの福音書1:9-13

 世の中のことを見ていると、「この世は闇」だなぁって思わされます。皆さんの周りではいかがですか。9節に「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた」とあります。もちろん、神様の御子、イエスキリストが、この世界へこられ、そのことが、世界が光に照らされるということだということ言っているのには間違いはありません。
 私たちの人生の本質的な問いのひとつは、「私はどこから来たか」というのがあります。ヨハネ8:12節には、イエス様は「わたしはひかり」であると言っています。同じ章の23節で、イエス様は「上から来た」 と言われました。これがクリスマスです。まことの光である方が天から来られたという素晴らしいことが起こったわけです。
 そして今日の箇所の12節に「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」と書いてあります。つまり、天から来られた「まことの光」を受け入れた者、御子を信じる者には「神の子どもとされる特権」がは与えられるという素晴らしい約束が、もれなくついてくるのです。
 私たちはイエス様を信じることで、「神の子どもとされる」そして「イエス様のいるところに一緒に行くこと」ができるのです。このクリスマスは、ただ素晴らしい人物の誕生というだけでなく、私たちに「神の子どもとされる特権」を約束する「まことの光」が来たことをお祝いするということを改めて覚えながら過ごしたいものですね。祝福を祈ります。