ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2003年1月]を短くまとめてのせています。

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2003年 1月26(日) 『御名をあがめる』 使徒19:8-20

 私達には、「焼き捨て」なければならないもの、「さらけ出して告白」しなければならない、隠れた罪はないでしょうか。そのようなものを隠し持っていたら十分に素晴らしい信仰生活も、力ある奉仕も、することはできません。神様よりも大切なものがあるとしたら、それを捨てなければならないのではないでしょうか。本来罪深い人間が、神様によって聖くなることによって素晴らしい私たちの信仰の成長とみことばの拡散と教会の発展、そして成長があるのではないでしょうか。
 題にもあげさせていただいた、「御名をあがめる」ということは、ただ、その言葉を言うことのみにはなく、そのような「自分たちのしていることをさらけ出して告白し」、「焼き捨て」ることによって表されていくのではないでしょうか。
 それは、みことばを他人に当てはめて、あの人はどうだとか、あのような人に聖書のみことばを当てはめてやりたいということではなく、自分が、そのようなことから解放され、「御名をあがめる」ことになるのです。誰かが「御名をあがめている」とか「御名があがめられていない」とか、そういうことではなく、自分が「御名をあがめる」人であるか、告白や焼き捨てをもって「御名をあがめることができているか」を確認するものでありたいと思います。そしてそのことによって周りの人々は、その人を通してあがめられる御名を、賛美するのです。
 主の祈りにおいて私たちは「ねがわくは御名をあがめさせたまえ」といのります。その祈りを言葉だけではなく、その祈りを実践するものであり続けたい、そのような人々が集うクロスロードバプテスト教会としてますます成長してまいりたいと願わされています。

2003年 1月12(日) 『イエスを信じるように』 使徒の働き19:1-7

 御心ならまたエペソを訪問するだろうと言ったパウロは神様の御心よってエペソを再び訪れることができました。
 さて、この箇所は、今日の私たちには、少し異様とも見える聖書の記事ですが、深い教訓を示しています。始まったばかりの教会に、聖霊のあることさえ知らなかった信者たちがいたのです。彼らはおそらくは立派な教会員であり、また立派な信者たちであったでしょう。聖書知識にも優れ、伝道に熱心で信仰深く、また信仰の戦いにも立派な人たちであったといえます。しかしかれらのキリスト教とパウロの教えとの間には、根本的な違いがありました。それは聖霊でした。神様を信じ、主イエス様を信じていても、聖霊にないところには信仰も救いもまことの命もありません。聖霊は生ける神の霊であり、私たちの中におられ、わたしたちを、主イエス・キリストを信じる信仰に導いてくださるのです。
 聖霊によって生き、父なる神に礼拝をささげ、イエスキリストの十字架のわざ、そして復活、その福音から離れない、バランスをもって歩む信仰者としての歩みが大切なのです。
 @ 教えられ続けなければなりません。→聖書や、みことばや、体験、交わりなど、によって私たちは教えられ続けることが大切です。
 A バランスが大事です。→偏った考えは、間違いの元となります。バランスを保つ為には、柔軟な心と硬い信仰が大切です。
 B そしてそれらは、イエスを信じることから離れては成り立たないということです。その硬い信仰とは「イエスを信じる信仰」です。
 これらのことを守って歩み続けるならば幸いです。

2003年 1月 5(日) 『霊とまことによって』 ヨハネの福音書

 さて、今年度の連合のテーマ聖句であり、また私たちの教会の新年度のテーマでもある、礼拝、しかも、「霊と真による礼拝」ということを取り上げ、聖書からごいっしょに学んで生きたいと思います。
 サマリヤ人とユダヤ人の対立の一つに、「どこで礼拝をすべきなのか」という問題がありました。こうした対立に対しイエス様は、「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます」とお答えになりました。イエス様が言われた真の礼拝とは、なんでしょうか。
 23、24節で言っている「霊」というのは、「聖霊によって」というふうに読むことができます。また、ここで「神を礼拝する」とは言わずに「父を礼拝する」と言っていることにも注意をしたいと思います。神を「アバ、父」と呼ぶのは、子たる身分を授ける霊、「聖霊」が与えられているからだと言うことができます。神から与えられる霊が、神様を天の父と呼ばせ、神から与えられる霊によって生れた者は、神の子供として神を父と呼ぶ礼拝をするということであるのです。
 「まこと」というのは人間の側のまことである前に、御子なるイエス様の内にある真実、「まこと」によって実現するものであるということができます。
 形式や、場所が重要な問題なのではなく、霊である神を、霊とまことによって礼拝することが求められているのです。
 神を喜んで生き、御霊の力によって生きるものが自発的に、神への恐れをもって、キリストにある真実をもって、偽りのない状態、偽善でない礼拝をささげることであるということができるのではないでしょうか。
 新しい一年もそのような礼拝者としてますます成長させられていきたいものですね。