ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2003年2月]を短くまとめてのせています。

元に戻る


2003年 2月23(日) 『御名のためなら』 使徒21:1-14

 パウロは、自分の決意をくじく人々をたしなめ、「死ぬことさえも覚悟」した胸のうちを語り、「御名のためなら」と彼の信仰を表します。パウロにとってはキリストを伝えることが第一のことであり、そのための迫害は当然のことであり、命は少しも惜しいとは思いません、とまで証言しています。こうしてパウロは、イエス様と同じように苦難の待ち構えているエルサレムに向かって歩き出したのでした。
 私たちは福音のために命をかけるパウロの心意気を感じることができるのです。
 パウロの行動は命知らずの無鉄砲さを意味しているのではありません。彼が、どうして決意ができたかというと、それは神様からの命に対する使命感と、主に対する信頼感の故であったと想像できます。
 聖霊によって示された計画は、困難があるからとか、大変だからとかそういうことで、うまれたり消えたりするものではなく、主がそれを遂行してくださると信じて歩むことが大切であることを思わされます。
 大切なのは、神様からの確信の大切さ、そして使命に生きる揺るがない信仰の強さなのです。
 私たちは何のために生きているのでしょうか。同じ部分もあり、ひとりひとり違う部分もあります。いま、みなさんがその問いから逃げないでほしいと思います。その答えは「御名のため」に生きるパウロから学びたいと思います。自分が何のために生きるのか、それは御名のため、そしてその御名のために生きるとはどのようなことかを考え、神様に問い続け、みことばによって確信を持って歩むことができる人生はなんと幸いなのではないでしょうか。

2003年 2月16(日) 『福音の力』 使徒20:17-38

 パウロは、自分がどのような状況のときでも。どこにおいても、心身をささげてきたこと、そしてその内容を語りました。それは長老たちに、そのようにしてほしいということでした。
 次に教会の牧会について語っています。それは、教会の指導者は自分自身の研鑽を積むことをし、気を配ることだと教えています。
 そして最後にみことばの力を語っています。それはクリスチャンをはぐくみ育て、神様のみ国を受け継がせる力であると・・・。
 私たちが、クリスチャンとして歩んでいくということは、実は、楽なことではないと思います。もし、それが楽であるなら、もしかしたら生ぬるい信仰生活を意味しているのかもしれません。もちろん神様の守りのもと、楽しく、そして喜びにあふれるということもあるでしょう。しかし、楽でないことだって少なくないのです。
 だから、教会は互いに支えあって伝道をし、福音を宣教し、教会によって育てられ、教会を育て、互いに励ましあい、互いに教えあい、しかし互いに愛し合わなければならないのではないでしょうか。それらは私たちに力があるからできることでもなく、私たちに能力がないからできないことではないのです。
 福音に力があり、福音を通して働かれる神様の力があるから、それをなしえるのです。もっともっと福音に信頼し、神様に頼って、委ねて、神様を信用して信頼して、歩んでいき
たいと強く願わされます。
 ローマ1:16「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」

2003年 2月 9(日) 『まだいのちがあります』 使徒20:1-16

 集会の最中の事故。しかも前途ある青年が死んだということは、周りに深刻な雰囲気が漂います。その中で、冷静に、そして、神様がよいことをしてくださることを信じ続け、希望を失わなかったパウロが言った言葉、それが、10節の言葉でした。「心配することはない。」とパウロはいい「まだいのちがあります。」といって抱き起こしました。
 パウロは疑わずに「神により頼む」ことを知っていただけではなく、実践していたのでした。ローマ4:18にあるような信仰、「望み得ないときに望みを抱いて信じ」る信仰、息絶えたものに命を与えるよみがえられた主イエス・キリストを信じたパウロの信仰によってなされたのでした。
 私たちは、何か不幸なこと、哀しいこと、失敗に出会うと、意気消沈して暗いことだけに目が向き、なぜ私だけにこんなことが起こるのだろう、また、なぜ、私の家族に、仲間に、周りにこんなことがおこるのだろうかと考え込んでしまいます。この不幸なことや哀しいことの背後に神様の御心があることに気づきません。人生の思いがけないことが起こっても、そこには神様のご計画があるのです。その思いがけないことを通して神様は御心を示し、私たちを訓練され、神様の栄光のために働かせてくださるのではないでしょうか。
 いま、自分に悲しみや苦しみがあるという方は、是非、死者をよみがえらせてくださる神様に、みなさんの心の中にある苦しみや悲しみを申し上げてほしいとおもいます。そうすれば、みなさんの心にあるすべてのことに解決を与えてくださり、今日の箇所に出てきた周りの多くの方々のように「ひとかたならず慰められ」るのです。

2003年 2月 2(日) 『ただならぬ騒動』 使徒19:21-41

 このような、ただならぬ騒動は、実際起こることもありますが、実は、外からの攻撃や騒動よりはむしろ、ひとりひとりの心の中で起こる騒動のほうが多いのではないでしょうか。今日の箇所から対処する三つの方法を学んでみたいと思います。
 @聖霊によって歩む
   パウロは、聖霊と自分の判断の一致のもとに、神様の導きに裏づけされた「ねばならない」を、確信をもって語ることが出来ました。私たちも、聖霊による聖い確信を持ち、聖霊による「ねばならない」をもって自分自身にそれを課していたパウロに倣いたいものです。
 A神を信じない人を用いることを覚えておく
   神様は、信じるものだけの神様ではなく天地万物を造られ、それを今、そして、すべての時代において統治されている。だから、クリスチャンとノンクリスチャンを分けたり、人を見て判断するのではなく、信仰をもって聞く耳、見る目を持ち、聖書の視点、神様の視点を持って他の人を受け入れることが大切です。
 B戦いに勝利をしていく
   こころの騒動をしずめ、信仰を持って、その戦いに勝利をしていくには、神様を信頼し続けるしかありません。神様の真理に堅く立ち続けることを意味しています。心の声や、自分の中に起こる騒動と戦い、堅く動かされることのない神様への信頼によって勝利をしていくことが大切です。