ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2003年3月]を短くまとめてのせています。

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2003年 3月23(日) 『変えられる人生』 使徒22:3-21

 今日はパウロの弁明、パウロの証しです。このところから私たちが学ぶべき三つのポイントを挙げたいと思います。
@人は変えられなければならない
 パウロは、律法に一生懸命な人物でした。でもそれで十分であったわけではありません。
 完全に見えるようであっても変えられなければならなかったのです。
 パウロが変えられたということ、そしてすべての人が変えられるということは、キリストに出会って、キリストにうちに住んでいただき、すべてを支配していただくということにほかなりません。私は救われなくても大丈夫、これで十分だ、などという人は一人もいないのです。
A人はクリスチャンになっても変えられ続けなければならない
 キリストに出会い、受け入れた人は、その後も変えられ続けていくのです。パウロも、ここに出てくるような姿にすぐになったわけではありませんでした。何度も神の声に耳を傾け、道を修正されている姿が何度か記されています。パウロがキリストと出会ってから、変えられ続けてこのような姿となったのです(ピリピ3:12)。
B出会いと変化を証しすることが、キリストを証しすること。
 私たちは、キリストが私を変えてくださり、そして変え続けてくださっていることを証しすることがでます。キリストが、私のようなものにさえ関わって、命をも投げ出して、救おうとしてくださった、それが証であるのです。
 私たちがパウロから学べることは、イエス様を迎えることによって人生を変えられ、そしてクリスチャンになってからも変えられ続け、そしてそのことを証しし続ける姿にあるのではないでしょうか。

2003年 3月16(日) 『人々に話を』 使徒21:37-22:2

 パウロは37節「一言お話ししてもよいでしょうか。」と話しかけます。パウロが神様から与えられた勇気と御霊の守りとイエス様への信頼があります。
 神様が働かれ、その神様が私たちを通して働いてくださったということを語ることがあかしなのです。私たちは、あかし人としてのパウロから学ぶことができます。三つのポイントを挙げたいと思います。
@ひたむきに証人となる
 クリスチャンは自分のことをキリストの証人だと思って歩み続ける必要があると思います。それは、だれでもが救われるのと同じようにだれでもがその証人にされたからです。またパウロのようにピンチの中にチャンスを探すためにも、私たちはひたむきに証人である必要があります。
A神様の計画に従って歩む
 あかしをするためには、神様に従っていないと、あかしをすることはできないでしょう。神様の御旨はどこにあるのか、イエス様は自分とどのように関わって、自分に何を望んでおられるのか。そういったことに目をむけいつも、主が語られることに心の耳を傾け、それに従うことです。私たちが神様のみ言葉に忠実に従っていくということです。
Bいつも恵みを思い出す
 神様の恵みを忘れてしまっては、その恵みを誰かに語ることはできません。絶えず、神様からの恵みを数え、覚えていることは必要です。
 これらのことを通して、私たちの信仰生活は、神様が私たちを通して、人々の間で、御業をなしてくださることあかしし続けることができるのです。

2003年 3月 9(日) 『ゆだねること』 使徒21:27-36

 ヤコブたちの工作と提案にしたがって、清めの儀式に加わったパウロの折角の行為が水の泡に帰すこととなってしまいました。
 それは清めの儀式が終わろうとした最終日のことでした。パウロはアジヤから来たユダヤ人たちに襲われたのでした。
 この騒ぎはエルサレムのローマ軍の守備隊の司令官である千人隊長の耳にまで届き、結果としてこの異邦人の千人隊長によって助けられたのでした。
 ここからいくつかのことを読み取ることができます。
 愛の行為が憎しみの行為へと取って代わるということです。パウロはユダヤ人クリスチャンのために清めの儀式を行い、そのことが一つのきっかけとなり言いがかりを付けられ、捕らえられるのです。イエス様も弟子たちの足を洗ったその愛の行為の後にユダに裏切られました。よくあることであり、世の常です。しかし、憎しみが宣教を導くという皮肉も、神様は用いられることもしばしばあるのではないでしょうか。
 試練において福音は力を発揮することがあります。聖書の中にそのように思えるところがしばしば出てまいります。
 私たちは、しばしば、困難に直面します。その困難のたびに、「クリスチャンなのにどうして?」とか、「神様はこのことをご存じないのだろうか?」とか「どうして神様は助けてくださらないのか?」と問いを発してしまわないでしょうか。
 しかし、委ねて歩むしかないのです。神様の前にあって、そのような歩みこそが、私たちクリスチャンの「平安の中にある歩み」なのです。そのことを喜んで受け入れてまいりま
しょう。

2003年 3月 2(日) 『奉仕を通して』 使徒21:15-26

 パウロ一行がエルサレムに着くと、教会の兄弟たちは喜んで迎え、翌日には、ヤコブを訪れます。ここでパウロは神様が自分を通して異邦人の間で働かれたことを十分に報告しました。ルカは言葉を注意深く用いて、「パウロは彼の奉仕を通して神が異邦人の間でなさったことを、一つ一つ話しだした。」と記しています。パウロは、神様が自分を通してなさった、と語ったことをはっきりと表しています。
 パウロはいつもこのような話し方をします。「私が」ではなく「神様が、私の奉仕を通して」このことをしてくださったという言い方です。
 なしたのはだれであるかが大切です。私たちはともすると、私が神を信じることによってこのようなことをなしたと言ったりします。そうではなく、神様が自分を通してなさった、と語らなければならないのです。
 いつの時代でも、永遠に生きておられる、イエス様が人々の魂に慰めを与え、力づけてくださるのです。私にとって大切なのは、私たちを通してキリストがどれだけ働いてくださったか、です。
 この後、結局、恨みを買う羽目になってしまいましたが、パウロは、自分に対しても、他の人に対しても、神様に対して恥じるようなことなく、歩んでいられるのです。それは、自分が信仰によってなしたのではなく、神様が自分を通してなさったと、確信し続けているからではないでしょうか。
 神様が私たちを通して働いてくださるような働きは、私たちが神様の言葉に忠実に従っていくことです。私たちの信仰生活は、神様が私たちを通して働いてくださるということが大切なのです。