ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2003年4月]を短くまとめてのせています。

元に戻る


2003年 4月27(日) 『知恵の用い方』 使徒22:22-29

 今日の題は「知恵の用い方」としました。パウロが用いたのはローマ市民権という特権でした。
 私たちには、必ずしも特権とか、特に優れた能力とか、使いきれないほどのお金などがあるとは限りません。しかし、ひとりひとりには、それぞれに違った、様々なものを与えられています。ほしくても与えられない才能もありますが、他の人がうらやむような、その人にしかない素晴らしい能力が必ずあります。それをクリスチャンは賜物といったりします。
 それでは私たちが持っているものをそのままにしていいのでしょうか。そうではありません。神様から必ず与えられる知恵を用いて、それを使わないと、それすらも取り去られてしまいます。
 それを用いる原則をあげます。
1. ヤコブ1:5にあるように、知恵を神様に求めて、その知恵を用いて、それぞれの賜物を  用いると言うことです。
2. 神様のためにそれを用いると言うことです。やはりパウロも、福音の証しのためにそ  の権利を用いたということを忘れてはいけません。
3. そして、エペソ5:15-17にあるように、主のみこころは何であるかを、よく悟らなくてはな  りません。やはり、「よくよく注意し、機会を十分に生か」さなければならないと聖書は  言っています。ですから、いつも神様と共に歩んでいなければ、それを用いることはで  きないのです。
 私たちの歩みも、主に従い、主に知恵を頂き、主から頂いている素晴らしい賜物を、主のために用いることが大切なのではないでしょうか。
 そのような歩みこそ、クリスチャンの喜び、生きる意味、そして素晴らしい祝福と平安に満ちた歩みとなるのです。

2003年 4月20(日) 『生きている方』 ルカ24:1-12

 復活と言う言葉は、聖書の中だけでなく広く一般的にも用いられています。イエス様の復活はどのような意味を持っているかを正しく理解する必要があります。
@ キリストの復活は蘇生ではなかった。
 イエス様のよみがえりは、再び死ぬようなことはありませんでした。
A キリストの復活は精神的なものではなかった。
 単にイエス様が持っていた、愛の精神、人類愛の実践、犠牲の精神といったこの後の弟子たちが受け継いだ精神が、生きているということが復活を意味するんだということは、明らかに間違いです。イエス様の体は、見えるものであり触れるものであったことが分かります。
B 幻や気のせいではなかった。
 復活を信じるということは、希望的観測や、信じやすい素質や、証拠を調べずに意味を引き出してしまうことでは説明できません。弟子たちが描いた希望的な強い願いからの幻ではなく、否定することができない事実であったのです。
 イエス様がよみがえったと言うことは死に打ち勝ったということです。死に打ち勝ったということは、サタンに打ち勝ち、悪に打ち勝ち、善であり義であるものが勝利をおさめたということです。戦争や飢餓や様々なこの世の悪に対して、また、私たち自身の中にある悪に対して勝つことができるという証拠なのです。十字架の福音は無敵となるのです。よみがえりのイエス様を信じると喜びがあふれ勇気のある人になることができるのです。どんな試みの中でも日々生けるイエス様に励まされて歩んでまいりましょう。

2003年 4月13(日) 『だがこの方は』 ルカ23:33-49

 朝の九時から6時間にわたって続いた、壮絶な苦しみを経ていま、父なる神様の御旨をすべてなし終えた勝利の叫びをあげたイエス様。神の子、救い主として御自分の使命を完全に全うされたのでした。
私たちはこの十字架を覚えて過ごしたいと思います。そして、今週のみことばに上げさせ
ていただいた、23:41 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
というこの言葉は、世の中では決して受け入れられなかった十字架上の罪人の信仰の言葉です。その彼が告白したシンプルな信仰に目をとめ、私たち自身も十字架にかけられたこの強盗の言葉を告白し、悔い改めをもって歩みたいと思います。
 また、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と、み国への希望に思いをはせたいと思います。
 イエス様は優しく、しかしキッパリと「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」とおっしゃってくださるでしょう。すでにいま、今日、私たちがイエス様のパラダイスにいるという、すべてが満ちたりることのできる約束のことば、そして保証の言葉を心で受け止めることができるのです。
 このかたこそ真の救い主、十字架にかかられた私たちの神様であることを頭でも心でも体でもすべてにおいて感じ、信じて歩むことができる幸いの中を歩んでまいりましょう。

2003年 4月 6(日) 『誘惑に陥らないよう』 ルカ22:39-46

 場所はオリーブ山の山腹にあるゲツセマネの園と呼ばれているところです。「ゲツセマネ」ということば、異邦人向けに書かれたルカの福音書ですので使われていません。
 時間はイエス様が十字架にかけられる金曜日の前夜、つまり木曜日の夜のことです。イエス様がとらえられ、そして、十字架にむかい、命を引き取られる直前のことです。
 イエス様は、私たちの罪のために一人苦しまれました。それは十字架だけではなく、そこに向かう道においても、苦しまれ、そのたびに、その苦しみに勝利された、それが私たちの主なるイエス様の姿です。
 私たちは、このイエス様の姿をいつも思っていなくてはなりません。この姿に思いを馳せる事ができないならば、私たちは誘惑にすぐに負けてしまうことでしょう。
 そしてこの箇所から、イエス様が祈りをもって、その苦しみ...十字架に向かう決意をしなければならないその苦しみ...に打ち勝つ姿を見ることができます。
 このことから、イエス様ご自身が、祈りと言う素晴らしい武器をもって、勝利されたことが分かります。私たちも、イエス様に習って、あらゆる戦いに勝利をさめる最大の武器は
祈りと信じて歩んでいくことができるのではないでしょうか。
 また、すべてのクリスチャンが心に止めなければならないみことばは「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」です。気持ちは一生懸命でも疲労のために体がついていかないときがあることは事実でしょう。しかし、弱さを知っておられるイエス様が、私たちのために祈っておられたことをも思い出し、みこころがなるように、祈ることが大切なのです。