ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2003年5月]を短くまとめてのせています。

元に戻る


2003年 5月25(日) 『死は勝利にのまれた』 Tコリント15章

 今日は、この聖書の箇所からこのテーマ、「死」について学ぶ機会といたしましょう。パウロと言う人は、思いやりの豊かな人でした。しかし常識や思いやりだけでは、教会が持つ、そして人間社会が持つ深い病を癒すことはできません。人の罪と悲惨に根本的解決を与える福音が、教会や社会を癒す決定的な力だからです。
 その福音とはなんでしょうか。それは、それらの罪の解決、と最終的には「必ず誰にも訪れる死」の解決です。
 聖書だけがはっきりと、この世に死が存在する理由を説明し、また、死に対する実際的な解決を提示しています。聖書は私たちが知る必要のあること、すなわち「死は人間にとって敵である」ということをはっきりいっています。敵である以上、死に対して真の解決は、これに勝利して生きることなのです。
 イエス・キリストは神の御子として、この「死」に勝利された、ただ一人のお方です。イエスキリストは、確かに十字架で死なれましたが、死からよみがえられたことにより敵である「死」に勝ち、こうして、「死」を滅ぼしたのです。
 「「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。」と聖書は記しています。
 イエスキリストは言われます。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」ヨハネ11:25
 死に勝利をするものとして福音を受け入れ、福音を堅く保ち続けて歩んで参りましょう。

2003年 5月18(日) 『真実と偽り』 使徒24:1-27

 テルトロという人ですが、彼は口が上手で、お世辞がうまい代表的な人物のようです。弁護士というのは、普通は被告人を弁護するのに、このテルトロは大祭司と一緒に下ってきて大祭司に代わってパウロを訴えているのです。このテルトロは、パウロを有罪にできれば、大祭司やユダヤ人たちから多額の報酬をもらえることを知っていました。ですから、嘘、偽りを平気で口にして、ペリクス総督に取り入ろうとしたのでした。
 お金のためには正義も真実もかなぐり捨てて、嘘、偽りを言う者は、古代ローマやユダヤだけのことではなく、現代日本の私たちの周りにもはびこっていることなのかもしれません。
 パウロは全く動じませんでした。なぜなら、訴えられているような事実はなかったからです。どのような時代でも事実より強いものはありません。
 実際パウロは、ユダヤの律法にも、ローマの法律にも触れるようなことはしていません。むしろ、宗教的にも、市民としても、人々の模範となっていました。
 ですから、このようなパウロを訴えたりする弁護士や、それを支持する宗教家、さらにこのパウロから、お金をもらいたい下心を持っている総督こそ訴えられ、糾弾されるべきだったのです。
 パウロは、この不正な裁判や、取り扱いを受けながらも、自分の証しと信仰の立場を表明する機会として、大いに活用しました。パウロは、キリスト教の本質である、「死者の復活」のことと「正義と節制とやがて来る審判」とについて総督や、その妻ドルシラに語る
ことができました。
 私たちもまた、それが神の言葉であるならば、謙虚に聞き、それに従うことです。なぜならば、神の言葉は常に真実だからです。偽りに騙されてはいけません。
 そして、クリスチャンとして、本当の神様を信じていない人に対し、パウロのように大胆率直に「死者の復活とやがて来る審判」について、真実を語っていく姿勢が大切なのではないでしょうか。

2003年 5月11(日) 『主の計画』 使徒23:12-35

 パウロを殺そうとする計画が裏で動き始めました。
しかし神様は、パウロをローマ兵によって守らせるという不思議な方法で、ローマでキリストを証しさせる、世界宣教へのご計画を立てておられたのです。
 私たちは神様のすばらしい介入を知ることができます。神様の計画は誰にも予想のできない形で着実に進められていくのでした。
 箴言19:21に「主のはかりごとだけが成る」とあります。その「主の計画」だけがなること知る私たちはいかに応答するのがいいのでしょう。
@神様の計画を知ろうとすること
 ただ、神様の計画があるんだ、ということだけではなくそれを知ろうとし、与えてもらおうとすることは、大切です。ただ、なんとなく与えられるのを待つのではなく、祈り、時には動き、他人の言葉にさえも耳を傾け、知ろうとすることも大切でしょう。
A主の計画に従うこと
 その主の計画は、自分の意にそぐわなくても、また、たとえこの世的な事柄であったり、人間的だと思ったりしても、神様はこうであると決め付けてかかることをしないことも大切なのではないでしょうか。
B絶望しないこと
 絶望は、神様の民にはふさわしくありません。必ず神様はどんな状況にあってもそのことをご存知でありそれを最善をなそうとしておられると信じてなお主の前に歩めるならば幸いです。
 このクロスロード教会も、主の計画を知り、いつも期待し、従ってまいりたいと願わされます。

2003年 5月 4(日) 『勇気』 使徒22:30-23:11

 パウロは行く先々で問題が起き、命の危険にまでもさらされました。パウロは弱気になることはなかったのでしょうか。いつも堂々として書かれているようなパウロであったかもしれませんが、やはり弱さを隠しきることはできませんでした。
 事実、パウロが、兵営で一夜を過ごしているときのことが今日の箇所の最後の節にはこう書いてあります。
23:11 その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない。」と言われた。
 反対に言えば、パウロが勇気を失っていたということです。心細くなっていたということです。そうでなければ、わざわざ主が現れて、このような励ましの、そして元気付けのことばは必要なかったのです。パウロは「勇気を出しなさい」と主に言ってもらわなければならなかったのです。
 パウロも、私たち同様、背後にあった兄弟姉妹の祈り、そして主の励ましに支えられていたということです。それがなければ立ち行かないことがしばしばあったということです。
 私たちの信仰生活は、どのような場面においても「主に導かれている」と信じて歩めなければ、苦しくなってしまいます。
 迷っていらっしゃる方、苦しんでいらっしゃる方、信じ続けることの難しさに心細くなっていらっしゃる方、疲れてしまっていらっしゃる方、信仰生活が不安定だという方、あかしができないと苦しんでいらっしゃる方。
 今日、主は、パウロと同じように、そばに立って「勇気を出しなさい。」とおっしゃっておられます。主にある本当の勇気をもって歩み続けようではありませんか。