ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2003年6月]を短くまとめてのせています。

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2003年 6月22(日) 『宴への招待』 マタイ22:1-14

 天の御国、神の国、天国を、王子のために結婚披露宴を設けた王様にたとえた、たとえ話です。神様は、そのものがふさわしいかどうか、いい人であるかどうかという基準で神の国に招いてくださるのではなく、どんな人でも、招かれたいと思う人を招いてくださり、そして、自分はふさわしくないと思う人を、ふさわしいものですよ、といって歓迎してく
ださると言うのです。
 「神様は天と地と私たち人間を含むすべてのものを造られた。しかし人間は、神に逆らう罪という性質を持ってしまった。その罪のために、神様のもとへはいけなくなってしまい、神の国から追い出された。しかし、あわれみ深い愛なる神様は、罪のない一人子イエスキリストを、その罪の身代わりに十字架で殺すようにしてくださった。だからそれを信じて受け入れるものは、神様の国に招いてくださる。」こういう神様の言葉、聖書の言葉を信じて受け入れたものをクリスチャンと呼び、そのものたちのあつまりを、教会というの
です。
 私は完全で問題がない、私には弱いところはない、私には悪いところがこれっぽっちもない、私にはずるいところはない、傲慢なところはない、やさしくて、心が広くて、何が起ころうと動揺せず、人を悪く思うことが全くなく・・・上げればいくらでも出てきますが・・・そういう人がいるでしょうか。みなさんはどうでしょうか。聖書はそれが少しでもあることを罪だといっています。そして、それでも神様はイエス様が身代わりで十字架の上で死んでくださったこの大いなる愛を信じて、こっちにいらっしゃい、ふさわしい服...あなたがどんな人間でも信じれば赦しますという服...も用意していますよと招いてくださっているのです。私たちは、招待されています。そのことに感謝し、まだこの神様の招きを受け入れておられない方は、是非、受け入れましょう。

2003年 6月15(日) 『イエス様のいる結婚式』 ヨハネ2:1-11

 ある結婚式の様子が書かれている箇所です。イエス様が水を最上のぶどう酒に変えたというイエス様の最初の奇跡が記されています。
 6月22日は私たちの教会での結婚式です。そんな私たち、は一箇所、この箇所に目を留めたいと思います。
 2:9 宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、――しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。――
 この結婚式にイエス様が出席なさっていることはほとんどの人が知りませんでしたが、奉仕をした者の近くに現れ、そして何が起こったかを彼らだけが知っていたというのです。
 今、私たちは、このイエス・キリストに物理的に、直接、お会いすることはできません。このカナの結婚式でも、おそらく多くの人がイエス様とお会いしていないか、気が付いていません。しかし、イエス様はそこにおられて、結婚式を陰から支えてくださったのでした。それを知るのは、ごく数人の、イエス様を信じて奉仕をしていた人たちだけだったのです。
 この教会の結婚式にも、イエス様は、出席して下さいます。そして結婚の祝福を陰で支えて下さるのです。表立った働きはなさいませんし、存在も見えるわけではありません。しかし、出席してくださっているのです。
 私たちも、この結婚式の祝福を祈り、そして結婚のために神様のために、小さくてもいい、見えなくてもいい、祈りだけしかできなくてもいい、その働きにイエス様とともに携わって、陰で働かれるイエス様と共に、結婚式を成功させ、ともに祝福に与るものとなりたいと思います。

2003年 6月 8(日) 『聖霊の宣教』 使徒25:13-27

 ペンテコステ礼拝
 マタイの28:18-20を読むと、イエス様は復活なさって天に帰っていかれる前に弟子たちに宣教命令といわれる言葉を残されました。ここで注意しなくてはならないのは、宣教の主体は人間ではなく、イエス様であることが分かります。あるいはルカ24:47−49 を見ますと、宣教の主体は聖霊であるということです。聖霊がなさる宣教、聖霊主体の伝道でなければイエス様の目的を達することができないからです。しかし、聖霊に満たされるなら、その働きはエルサレムから始まり全世界まで広がり、全てのものを一つとします。
 今日ご一緒に見てきたこの箇所は、パウロの言葉も登場しなければ、神様も聖霊も登場せず、ただ、フェストやアグリッパしか出てきていません。権力を持つものやどちらかと言えば敵と思える側の、動き、画策しか記されていません。
 しかし、パウロが、その宣教の願いどおりローマに移送され、また、26章では、パウロ自身は何もしていませんが、人々の前で証しをするチャンスを得るのです。まさに、言葉に記されない、まるで、ただ人の動きが書いてあるだけの箇所を通して、聖霊が着々と働いておられる様子が、実は明確に現されているように思います。
 このパウロの時代、そして今現在、聖霊が私たち、クリスチャンに臨み、力を授け、そしてイエス様の証人とさせていただいているのです。
 私たちが聖霊に満たされ、また聖霊による宣教をするならば、毎日クリスチャンとして真剣に精一杯生きることが、神様の栄光を現し、宣教につながるということなのです。そのように歩み続けていく者とされて参りたいと願います。

2003年 6月 1(日) 『信仰に堅く立つ』 使徒25:1-12

 パウロは「信仰に堅く立つ」人物でした。総督や裁判官の前に立ちながらも相手を見下したり、何を言っても無駄であるとは考えず、粘り強い信仰を持っていました。
 パウロの、信仰に硬く立つ、具体的な姿を三つの視点で見て、ともに学びたいと思います。

1.2年であろうと5年であろうと、すべて益
 パウロは、2年間もの間、牢に捕らえられていましたが、信仰がなえることなく、また、その苦難の中でも「神がすべてのことを働かせて益としてくださることを」(ローマ8:28)知っていたのでした。

2.はっきりとした信仰
 パウロはいつも、自分のおかれた立場において最善を尽くしていました。「私は死をのがれようとは」せず、はっきりと問題を指摘しています(11節)。物事をいい加減にできなかったのです。彼は、善と悪、信仰と不信仰のけじめをはっきりさせていました。
 ですから私たちも、クリスチャンの品性に関わる問題や、神様の栄光を傷つけるようなことであれば、ことの是非をはっきりさせなければなりません。

3.神のみを恐れる
 パウロが事を強く望んでいたローマ行きでしたが、皇帝や総督や裁判官や弁護士を恐れず神を恐れ人の歓心を買おうとはしませんでした。
 パウロは神様のみを恐れ、聖霊にのみ望みを置いていたのでした。

 私たちの信仰生活も「堅く立って、動かされることなく」歩み続けて参りたいと願わされます。