ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2003年7月]を短くまとめてのせています。

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2003年 7月27(日) 『髪一筋も』 使徒27:27-44

 「こうして、彼らはみな、無事に陸に上がった。」と記されて27章が終わります。
この章にはパウロがカイザリヤを出発してローマに着くまでの航海の日記のようなもので
、私たちの一生もまた一つの旅であり、海の上を流れ行く、航海のようなものでもあります。そしてどんなに大きな船でも、小さな船でも、海図や、船長がいなければ、遭難と死は避けられません。しかし多くの人々の人生が、自分の力だけを当てにして聖書もイエス様も乗せずに船出しています。
 27章で記されていた難破の危険は、276人の一人として欠けることなく、怪我することなく、無事に「髪一筋も失われることはありません。」という神様の約束の通りになりました。
パウロは神様の言葉を人々に伝え、それに従わせ、そして全員を救いに導くことができました。同じようにイエス様も政治家や皇帝ではありませんでしたが、私たち全人類の救いと未来は、イエス様を船に乗せ、このイエス様のお言葉に従うか否かにあるのです。
 イエス様ご自身も同じことを言っています。「しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。」(ルカ21:18,19)終末における救いの話として書かれている箇所です。
 現在、この世界に生きている約60億人、日本の1億2000万人、相模原の62万人の一人一人の人生航路もまた、イエスキリストというお一人の十字架の犠牲に、その救いがかかっているということです。
 そして私たちがイエス様に従うとき、「髪一筋も失われることはありません。」と今日もイエス様の約束が与えられているのです。
 信じて歩む幸いの中を歩ませていただきましょう。

2003年 7月20(日) 『クリスチャンの自信』 使徒27:1-26

 パウロのこの自信と確信に満ちた言葉はいったいどこから来たのでしょう。276人が生きるか死ぬかの瀬戸際ですから、単なる思い付きや希望的観測ではこうはなりません。いい加減な気休めも人々には届かないでしょう。
 ところがパウロは決してでたらめを言ったのではありません。パウロのこの自信に満ちた言葉の裏づけは「神様のみ言葉」であったのです。23節から26節までに書いてある、み言葉の確固たる裏づけがあったのです。
 パウロは恐ろしいほどの強い自信と確信を持っていました。
 読んでいただきました25節は今週のみことばでもありますが「すべて私に告げられたとおりになると、私は神によって信じています。」というパウロの言葉、これこそ本当に神様を信じている私たちクリスチャンの自信であり困ったとき、失望しそうになったとき、不安なとき、いやそれだけではなく、日常生活のすべてにおいて、私たちのよりどころでなくてはなりません。
 そして、私たち、神様を信じるものの力と勇気は、平穏無事のときも、そして、逆境と非常事態のときも大いに発揮されるものなのです。
 また、パウロのたった一人の祈りと自信に満ちた行動が276人を守ったように、私たちも家族や友人、この日本や全世界の人々が、悪魔や迷信や、不道徳や、この世の荒波や、そして永遠の滅びから守られるように祈り行動するように導かれているのではないでしょうか。
 私たちクリスチャンの自信はみ言葉による確信です。この確信をしっかり保って歩めるならば、幸いです。

2003年 7月13(日) 『私が神に願うこと』 使徒26:24-32

 今週のみことばは、29節の「ことばが少なかろうと、多かろうと、私が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです。」という言葉です。
 何という大胆さでしょうか。しかしここで大切なことは、パウロが自分の性格や、自分の働きや、自分の長所や短所を真似なさい、と言っているのではなく、私のように「イエスキリストを信じるものになってください。」と言っているということです。「私のようになってください」それは本来、クリスチャンが語りえる最も力強い神様への招きの言葉なのです。神様に対する信頼の深さ、大胆さと確信がその言葉に含まれているのです。
 私たちの家族や友人の中にも、アグリッパ王のように、キリスト教について、理解、あるいは好意を持ちながらも、最後の決心がつかない人がたくさんいます。
 宗教に対して間違った先入観を多くの人が持っていることです。また、クリスチャンになれば、自分の遊びや楽しみや、財産や、そういったものが、犠牲になるのではないかという恐れです。あるいは、自分がバプテスマを受ければ、周りの人は自分をどう見るだろうか、なんと言われるだろうかという思いです。
 しかし、大事なことは、イエス様の十字架と復活以外に本当の救いはないということです。イエス様を信じなければ神様の裁きと滅亡とが待っているだけなのです。
 私たちが、この福音を誠実に良い関係を持って、粘り強くまじめさと信実と愛をもって、「私のようになってください」と伝えることが力となるのではないでしょうか。

2003年 7月 6(日) 『人生の大転機』 使徒26:1-23

 パウロの人生の大転機となったそのときの証しの箇所です。
よく、クリスチャン二世は、この転機が分からないと言います。またクリスチャンになってから、本当に自分の人生は転換したのかと思うときがあると聞きます。また、クリスチャンになってしまったら、もう大転換はしないだろう、もう私はしたのだからと思うかもしれません。
 その考えでは足りないと思います。
私たちの人生の大転機は、イエス様を信じて悔い改め、クリスチャンとなったことです。しかし、本当はそれに加えて、今もなお、神様に作り変えられ続けて、人生の大転機がひき続き起こっているのです。
 パウロも、ダマスコの経験のあと、すぐにこのときのように、誰をも恐れなかったわけではなく、おそらく、パウロのこれまでの経験を通して、このようなものに変えられたのであると思います。そしてこの後も変えられ続けていくのです。
 よく、パウロのようにはっきりと示されれば、信じますという人がいますが、そのような人は、はっきり示されていて、そして、イエス様が戸をたたいていることを実は気がつきながらこれは違うのではないかと、一歩を踏み出せないでいる人が多いように思います。
 また、クリスチャンも同様で、今なお変えられ続けていることを受け止めようとしなければ、幼いままのミルクしか飲むことができないままの状態から抜け出せなくなってしまうのです。
 私たちにいつも、変わり続けて、イエス様の似姿に近づいていくことを神様は導いておられるのです。
 パウロの大転機の結果、神様の命令にますます従順になっていく姿に倣いながら、その神様の導きに従って、いけるならば本当に幸いです。