ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2003年9月]を短くまとめてのせています。

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2003年 9月28(日) 『礼拝(前編)』 ヨハネの福音書2:13-17

 二回にわたって、礼拝ということを考えていきたいと思います。今回のテーマは、
「本物の礼拝者であることを求められている」ということです。イエス様が怒りを向けた、この人たちは、一見、礼拝のためという顔をしていながら実は、礼拝者でも、礼拝をする者のための人たちでもなかったのです。礼拝の名の下に商売をしているだけの人たちでした。
 しかし本当に必要なのは、礼拝をささげることに真剣になることです。イエス様は、それを求めておられます。
 ある意味で、礼拝に参加して、家庭のこと、教会や友人たちの必要、何かできることがあるのかどうか、そういう心を分かち合えるのは悪いことではありません。でも、本
当に真剣にみ言葉を聞き、今日のお昼ごはんのこと、あの人が来ていないとか、奏楽者間違えたとか、子供が騒がしいとか、そういうことに全く気づかないで礼拝を続けることができることもすばらしいと思います。
 様々な配慮をする心や、気遣いを神様は喜ばれますが、神様が私たちに本当に求めておられるのは、礼拝者としての姿です。週に一度、心の備えをもって礼拝に参加して、心から賛美を楽しみ、神様に祈り、本当に真剣にみ言葉を聞く、そういう神様が求めておられる、本物の礼拝者となることは、礼拝から多くの恵みを得る秘訣でもあります。また、週に一度の礼拝のことだけではなく、日々の生活にも大きな影響をもたらすのです。
 クリスチャンとしての歩みは、神様の求めておられる本当の礼拝者としての歩みであることを今一度思い起こして歩み出せるならば幸いです。

2003年 9月21(日) 『最初のしるし』 ヨハネの福音書2:1-12

 カナという町での婚礼に招かれたという出来事が記されています。 なくなってしまったぶどう酒の問題に対して、イエス様はしもべに「水がめに水を満たすよう」命じます。相当な労働だったにもかかわらず、しもべはそれを淡々と実行します。
 そして、誰も知らないところで、水がいつの間にか上質のぶどう酒に変わっているのです 。
 なぜそうなったのか、理由や理屈はわかりません。しかし、イエス様が、結婚式を祝福し 、ぶどう酒なしのまま、結婚の宴会が冷めてしまうことを喜ばれませんでした。だからこそ、汲まれた水をぶどう酒に変え、そこに居る人たちを祝福されたのです。それが、最初のしるしであると記されています。
 このお方にこそ、希望があるのです。結婚披露宴の最中にぶどう酒がなくなったというのは、困惑、失望であり、幻滅すべき状況であり、失敗であり、苦難であるといえます。イエス様は、私たちのそういう出来事の中に、最上のぶどう酒をもたらすお方なのです。
 イエス様が救い主であるということを弟子たちに確信させる最初のしるしとしての奇跡だったのです。弟子たちはイエス様を信じたと書かれています。今までより、もっともっと深く信頼したという意味でしょう。イエス様は水をぶどう酒に変えました。そしてそれ以上に大切なことは、弟子たちを信じる者に変えたということです。イエス様が、失望を希望に、罪人を新しい人に作り変えることがおできになる方であるということです。
 今も生きておられる、イエス様に、求めて、希望を持つものとして歩めるならば幸いです。


2003年 9月14(日)
『来て、そして、見なさい。』 ヨハネ1:40-51

三つのポイントから学びたいと思います。

 1.イエス様の弟子たちが召しだされた出来事が書かれています。弟子達は、信仰によって立ったのでした。そこに理由や根拠は要りません。自分の足りなさを感じていたのかもしれません。イエス様の完全さ、聖書が言っていることのもっともさに気がついたからかもしれません。イエス様と共にいることの安心感を直感的に気がついたからかもしれません。しかしいずれにしても、彼らは信仰によって信じ従ったのでした。私たちも、それぞれの理由が異なってもただ、信仰によってクリスチャンとされたことを思い出し、信仰の原点をいつも握り締めていましょう。

 2.弟子たちは他の人にも紹介したことが記されています。「きてみなさい」と言って紹介します。伝道は「聞いて学びなさい」というよりむしろ、「一緒に来て会ってみて」ということなのではないでしょうか。自分がイエス様と出会ったこと、その喜びに満たされているかどうかは導きたい相手に伝わります。常にイエス様の恵みや愛を再発見し、再確認し、イエス様とのきずなをますます深める生活をしていることが、伝えることの第一歩
なのです。

 3.イエス様が来られたと言うことは、天がいつでも開かれていて、それは、神様が天からいつも助けようとしていてくださっているということです。助けようとしていてくださることに平安と喜びを持ちながら、もう一度、いや、何度でもイエス様に完全な信頼を置く決心、従う決心、自分ができる献身を確認して歩み続けることがそれぞれにもとめられているのです。

 私たちの信仰の原点は、イエス様を信じ、信頼してゆだね、喜びに満たされ平安に満たされていることが大事です。そのとき、他の人にも「来て、そして、見なさい。」とイエス様を紹介することができるのです。いつも信仰生活をチェックしつつ歩んでまいりましょう。

2003年 9月 7(日) 『いっしょ』 ヨハネ1:35-39

 みなさんは、イエス様から 「何を求めているか。」「何が欲しいのか」と尋ねられたら
、どう答えるでしょう。しかし、この弟子は「先生、どこに泊まっておられるのですか」と答えています。言い方を変えると、何を求めているのですかという質問に、「先生と一緒に居たいです。イエス様と一緒にいて、一緒に感じ、一緒に学び、一緒に喜びや悲しみを共有したいのです」と答えているのですが、この問答は大変重要な意味があります。
 クリスチャンとは、イエス様の弟子とは学びつづけるという存在です。イエス様と一緒にいることを楽しむこと、イエス様についていくこと。イエス様と共感しながら生きること
、そういう中でこそ、自分の本来の姿が見えてくるのです。
 本質的に、私達には、この神様との、そしてキリストというお方との密接な関係が必要なのです。それは共感的関係であり、イエス様の視点でものを見る、聞く、感じる、話す、・・・といったことが必要なのです。
 イエス様と一緒にいる、イエス様がここに居て、支え、教え、助けてくださる、ということこそ、信仰の本質的な祝福なのです。
 キリスト教は、「イエス様との関係、交わり」であると言われています。
 「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。」詩篇73:28
 人間にとっての幸せは、誰かと一緒にいられることです。そして、イエス様と一緒に居られることこそ、その原点であり、頂点でもあるのです。