ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2003年10月]を短くまとめてのせています。

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2003年10月26(日) 『神様の愛』 ヨハネの福音書3:16-21

 有名なヨハネ3:16には神様が愛に溢れた方であると教えています。
 神様の愛とは、「滅ぼさない」「永遠のいのちの付与」「裁かない」「救い出す」という
ことを神様の側で決めてくださっていて、そのためにひとり子であるイエス様を私たちのためにお与えくださったのです。
 人間はすべて「滅ぼされる」「死んでしまう」「神様から裁かれる」存在であると聖書には書かれています。人間は、神様との関係が死んでいて、自分で自分の心をきれいにすることが出来ず、神様とは敵対関係にある存在であるということがわかります。
 しかし、神様の愛は、そういう人間の惨状の真っ只中に届くのです。
 そしてその結果、「罪の赦し」、「永遠のいのち」が与えられるのです。「永遠のいのち
」とは、別の言い方では「永遠的な希望の提供」と考えることができます。死ぬことは解
放されることでなく、決してやり直すこともできず、全く希望の無い状態となること、つまり、死は絶望です。しかし、その死が永遠になくなるということは、絶望や断絶から永遠に解放されるということになるのです。
 また、私たちの中に「永遠のいのち」や「罪の赦し」という安心感がないと、私たちは「
自己弁護」を繰り返し、「自己逃避」に走り苦しみます。「罪の赦し」というのは、その神様との永遠的な深まりを意味します。もちろん、自分の心が軽くなり、自分の心に「ホッとできる」自覚が深まります。
 うれしい言葉として、神様からの愛の言葉として、この言葉を受けいれて歩んでいきましょう。
 ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

2003年10月19(日) 『新しく生まれる』 ヨハネの福音書3:1-15

 聖書の中でも有名な人物、ニコデモという人とイエス様の話です。
 イエス様は、ニコデモに「人は、新しく生まれなければ、」また「人は、水と御霊によっ
て生まれなければ、」神の国を見ることはできないと言います。イエス様がお語りになら
れた教えの中でも本当に重要なものです。
 「神の国に入る」、「永遠の命を得る」「新しく生まれる」ということは、がんばって人
生をやり直すとか、努力して、別の人生を歩むとか、そういうこととは本質的に違います。人間の努力には限界があり、「神の国に入るために新しく生まれる」という基準には決して到達し得ないのです。
 イエス様の語られた言葉の中の「霊」とは、神様からの働きかけ、すなわち、聖霊の働きです。これによって、イエス様が救い主であることを受け止め、十字架と復活がまさに私のためであったと気づき、信じることができたとき、私たちは新しく生まれるのです。
 また、新しく生まれるということは、必ずしも、あっと言う間に、倫理的に完成された人
になるということではありません。もちろん、以前よりは罪に対して敏感になり、愛につ
いて大事に考えるようになりますが、少しずつ変えられていくのです。そしてさらに、自
分だけの世界に生きていた私が「神とともに、キリストとともに」生きていけるようにな
るのです。そしてこれこそがまさに、新しく生まれた人間の地上における最大の祝福があります。
 どんなときにもイエス様と一緒に生きていけるのです。永遠の同伴者と一緒に歩めるようになるのです。それは、死を迎えるような状況になっても同じです。
 私たちは、聖霊の助けと、イエス様の十字架における愛と復活の力とにより、神様の恵みによってのみ、新しく生まれることができるのです。

2003年10月 5(日) 『礼拝(後編)』 ヨハネの福音書2:18-25

 私たちはクリスチャンとして歩んでいくときに、本当の礼拝をささげる礼拝者であることが求められていると前回、お話しました。
 イエス様が求めているのは、その言葉を信じ、聖書の中にある救い主なるお方をイエス様の中に認める人たちなのです。興味本位なつきあいではなく、いのちの交流を味わう関わりをイエス様は求めておられるのです。イエス様は本物の礼拝者としての「関係」、「関わり」、「きずな」を求めているのです。
 そして、その礼拝とは、形式とか、伝統とか、この場所に居ればいいのだという認識だけであるとか、ただ何となく、讃美歌を歌い司会者の祈りを聞き、牧師の話を聞いているだけのものではならないのです。
 出て来たユダヤ人のように、好奇心や、宗教的な教えが好きでした。また伝統、または権威を持っていましたが、信仰はありませんでした。彼らは伝統の方が、聖書の教えそのものより重く、習慣の方がイエス様の教えより大事なことだと考えていたのです。
 しかし、イエス様は、礼拝を捧げる喜びや平安、感謝を回復させるためにいのちをかけたのです。
 私たちは、真の礼拝者となっているでしょうか。この時間もそうですし、日々の生活そのものがイエス様と大事なきずなでつながっている礼拝者とされているでしょうか。そのことを問い直して、足りないところを補って、再びイエス様との礼拝者としての深い「きずな」で結ばれたものとして、歩んで参りたいと願わされます。また、まだイエス様とそのような関係ができていない、信じていない、クリスチャンになっておられない方がいるならば、神様の御子であり唯一の救い主なるイエス様と、そのような関係が出来る幸いを味わうものとされるならば、幸いではないかと思います。