ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2003年11月]を短くまとめてのせています。

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2003年11月30(日) 『刈り入れ』 ヨハネの福音書4:27-42

 イエス様に出会ったこのサマリヤ人の女性は、自分と話をしている人が「メシアだ」とわかると、もうその喜びを隠しきれません。町の人々にイエス様を紹介し、大勢の人々、しかもサマリヤ人たちがイエス様のところに来て、イエス様を救い主として信じるのです。
 彼女の中には大きな変化が起こっています。彼女は町の人たちからは軽蔑される存在で、町の人たちとは交流のなかった人だったろうと思います。
 私達は、イエス様とこの女性の出会いのように、誰かと出会うとき、何かしら心地よい、何かしらうれしい、心に残るもの、相手の心をうごかすものが分かち合えたらと思います。誠実に、神様からの祝福を願いつつ、出会うこと、必要な言葉を語り、よく聞くこと、福音の本質は、そういう出会いの中で種が蒔かれるのではないでしょうか。
 イエス様とサマリヤの女性との出会いの中で心を打つことはなんでしょう。その大切な一つは、イエス様の誠実さ、優しさではないでしょうか。軽蔑的な意識がまったくなく、相手が自由に話ができている背後には、会話の中に皮肉や嫌みがまったく無かったからだろうと思うのです。イエス様は決して高いところから、人を見下して教えてはいないのです。イエス様はクリスマスに天から下って、私たちのところに来て、そして「交流」をしてくださったのです。それがイエス様の「刈り入れ」の方法でした。
 バプテスマのヨハネの燃えるような断罪の説教とはまったく異質だったと思います。これも大事なことかもしれません。しかし、イエス様の大事になさった「真の交流」による分かち合いについては、この時代にこそ必要だと思うのです。いろいろな方々との交流、対話、交わりが祝福あふれるものとなり、祝福を分かち合うものとなるなら幸いです。

2003年11月23(日) 『永遠のいのちへの水』 ヨハネの福音書4:10-26

 そしてイエス様と会話をしている中で、女性は、「生ける水」のことを耳にし、会話に引き込まれていきます。そして、ぜひ、欲しいと彼女はイエス様に話します。
 私たちには、そういう渇きがあるでしょうか。「イエス様、私の心を満たすいのちの水を与えてください」という祈りの大切さを覚えさせられます。
 また、イエス様は、この女性の求めに対して、不思議な返事をします。その言葉は、彼女にとっては困惑させられるような、一番触れられたくない問題、しかし、触れられ、解決しなければ絶対に幸せになることができない、心に平安が訪れないと思われる障壁だったのでした。
 この女性はおそらく、心の深い部分を、イエス様に知られているということからくる一方では「恐怖」、一方では「安心」を彼女は味わったことでしょう。イエス様はこの女性に恥をかかせるつもりではなく、一番深刻な問題をイエス様との関係の中でまず、「知られており、解決される道があること」を示したかったのです。
 これは、イエス様との関わりの中で、みなさんのお一人お一人が、一番心を痛めている事柄について、心の傷、あるいは罪について、「イエス様に知られている。」ということを認めることが大切なのだということなのです。そしてまさに、そのことこそ、求められる悔い改めなのです。
 イエス様に、私たちの心に触れていただいて、そこにある渇きをごまかさずに神様を恐れる思い、そして、ほっとする思いを得ることで、私たちのたましいが本当の意味で潤されるのではないでしょうか。
 私たちの心とたましいが渇くことの無い「いのちの水」を受け取るものとなりましょう。

2003年11月16(日) 『水を飲ませてください』 ヨハネの福音書4:1-9

 ご自分で水を飲むことができない状況のイエス様は、ちょうど、そこに居合わせたサマリヤ人の女性に声を掛け、水をもらおうとするのです。
 この時代、ユダヤ人はサマリヤ人を嫌っていましたから、この女性はびっくりしたにちがいありません。
 まるで、腹を立てている相手にお願いする状況です。しかし、イエス様の「水を飲ませてください。」という会話から、この物語が始まります。あのイエス様が、人を世話するのではなく、世話をされるところから始まっているということに驚かされます。
 私たちは、ボランティアとか奉仕というと、どうしても「何かをしてあげる」ということに目が向きます。相手に何をしてあげたらいいか、自分は相手に対して何が出来るのか、ということを考えがちです。それは悪いことではありません。
 しかし、もしかすると私たちは、いつも「やってあげなきゃ」という思いが先行してそれを押しつけて、「ボランティアをした」「〜をやってあげた」と自己満足してしまいやすいのです。
 イエス様とこの女性との出会いは、イエス様が「弱い女を救ってあげよう」という姿勢でのお話ではありませんでした。
 いつも人が「必要」とする人になってはならないばかりか、時には他の人を「必要」とする人にならなければならないのではないでしょうか。
 人に「お願いします。」と頼めることは、実は大事なことなのです。頼む内容にもよりますが、一般的には頼む人を謙遜にし、頼まれた人を上位に押し上げるからです。そして、そこにこそ、救いの種が蒔かれているのです。
 「水を飲ませてください。」と言えたイエス様の中にある「謙遜と愛」をしっかり、心に留めておきたいと思います。

2003年11月 9(日) 『受け入れるもの』 ヨハネの福音書3:31-36

 著者ヨハネはここで、天から下った御子イエス様を紹介していますが、天からの存在と地に属する存在が全く異質であることを示しています。
 人間であれば、どんなに有名で、どんなに偉人として尊ばれても「地に属する者」なので、それ以上にはなれませんし、ましてや神様にはなれません。
 また、私たちが、永遠のいのちや永遠の交わりなどについて考えようと思ったら、地に属する人間の思想では不足なのです。天からの声を聞き、天に属する存在の教えに耳を傾けなければなりません。
 イエス様だけが、天から来られた神の御子であり、そのお方こそ、父なる神様の心、めぐみとまことを余すところなく私たちにお示しくださるお方なのです(ヨハネ1:18)。
 さらに、加えるならば、ヨハネがそのイエス様をはっきり認めることができるようになっ
たのには彼が聖霊の助けがあったからでした。
 私たちは、自分が聞いたこともない外国の言葉をつかって、その国の文化や特色を説明されても何の意味も持たないように、地に属している私たちには、天における出来事、約束、希望なども、「聖霊の助け」がなければさっぱりわからないのです。
 また、私たちはいろいろな方法でイエス様に聞き、イエス様の語られる約束や慰めを受け取り、イエス様を信じるべきことが「聖書」によって教えられ、勧められています。イエス様が証言されることを受け入れること、イエス様の言葉を聞くこと、イエス様を信じること、イエス様に従うこと、それらは、「あかしを受け入れること」にほかなりません。
 イエス様のあかしを信じるということは、聖霊に教えられ、謙遜にイエス様の提供してくださる祝福や救いを、感謝をもって受け取るということです。
 そのように歩んで生きたいものですね。

2003年11月 2(日) 『天から与えられるのでなければ』 ヨハネの福音書3:22-30

 エルサレムでニコデモと会われた後イエス様は弟子たちと共にユダヤの北の地方に行って宣教し、教えを聞いて信じた者達にバプテスマを授けておられました。
 イエス様の所に人が集まりはじめていることに、バプテスマのヨハネの弟子たちは嫉妬心を燃やしていたのでしょうか。 しかし、ヨハネは、それぞれの人の役割や使命は、天から与えられるもの、また天からの使命や賜物を受け取ってないなら、それらを実行することはできないということになります。それは、個人個人がそれぞれに、なにがしかの役割や使命を天から授けられているということにもなります。それぞれ別々なものかもしれませんが、とにかく、天からの使命があるのです。自分でなければ、あなたでなければ、果たし得ない使命が存在するのです。
 それぞれの個人が、心静かに考えたとき、これは本当に自分の努力やがんばりで到達したり、獲得したものではなく、神様が与えてくださったもの、と実感できるものが存在するのです。
 また、さらに深く読むと、このヨハネから学べることがあります。彼は、イエス様の登場を準備し、それを喜んでやっている存在だというのです。人が誉められ、人が良い思いをし、人がのびのび、喜んで働けるような状況を準備し、その人が高められることを心から感謝している、ここにヨハネの僕(しもべ)としての輝きがあります。
 私たちは何が何でも自分が評価されないと腹を立てやすく、自分が有名になるために人を押しのけ、良いことはすべて自分のせいにし悪いことは全部他人のせいにしてしまうような傾向を持っていないでしょうか?それはヨハネの生き方とは違います。聖書が推薦する生き方とは違います。
 そんな僕(しもべ)でありたいものです。