ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2003年12月]を短くまとめてのせています。

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2003年12月28(日) 『感謝があふれるため』 Uコリント4:7-15

 このパウロほど自分の弱さを知っていた者は、いないのではないでしょうか。自らを「土の器」といいます。この土の器とは、一つは貧しさの象徴です。もう一つは弱さの象徴です。パウロの実際の姿は,弱さにあふれていました。その容貌、身体の弱さ、また弱弱しい印象が彼の姿でありました(10:10)。
 しかしパウロは,彼の弱さと貧しさこそが,福音の栄光を現す最善の背景であることを示しています。この弱さと無価値さの故に,彼がゆだねられている福音という「宝」の素晴らしさがよりいっそう輝くのです。
 天の宝とは、6節にあります「キリストの御顔にある神の栄光を知る知識」です。一言で言えば福音のことです。
 彼は、その宝のゆえに、無力さのすべてを感謝して受け入れていました。その宝は、パウロにとって漠然としたものではありませんでした。中心は復活信仰です。今、苦難の中でパウロを生かすイエス様のいのちの恵みは、やがて救いを完成された者として下さるという信仰を硬く保っていたからです。それ故パウロは、勇気を失わずにいられたのです。
 そのパウロの宝とは、私たちの宝でもあります。全く同じものです。パウロが誇り、パウロがこの宝のゆえにどんなことでもできるといった宝を私たちも持っているのです。福音は今も2000年前も同じものです。そしてその宝は、いまなお、輝きが衰えることなく、このくらい時代にもいっそう輝きを増しているものなのです。
 それゆえに、かれは苦しみや苦難ですら、大いに感謝することが出来たのです。神様への感謝があふれ,神の栄光が現すことになっていたのです。
 私たちも、このパウロの信仰に立ち、ただ良かったことだけ感謝が出来るのではなくて、苦難にも感謝が出来る、そうなりたいものです。

2003年12月21(日) 『恵みとまこと』 ヨハネの福音書1:14-18

  メリークリスマス。
  ヨハネの福音書の最初はこのクリスマスに誕生されたイエス様の紹介から始まっていました。イエス様を「ことば」「いのち」「光」であると紹介した後、なんと、そのお方によ
って私たちは「神の子供」とされる祝福があるんだと教えられました。
  さらに、そのお方が、私たちのところに肉体をとって来てくださったこと、つまりクリスマスの本当の意味をヨハネは語っています。
 キリストというお方は、神様の独り子であるにもかかわらず、人間として世に来られました。しかもそれは、私たちに、父なる神様がどれほど愛に富んでおられるかを教えるためでした。どれほど、真実なお方なのかを教えるために、神である自分よりも様々な制約を受け、立場的に利益の少ない御自分が創造された人間という存在になってくださったのでした。
 今の人間の世界を見ていても分かるように、神様に放っておかれて、滅んでしまったとしても誰も文句は言えないのです。しかし、イエス様は、そこを敢えて、私たちへの愛ゆえに来てくださいました。私たちの罪を赦す為には、ご自分が十字架に掛からなければならないことを承知の上で来て下さいました。しかも、その罪に満ちている人間と同じ姿で来てくださいました。
 それは、神様が、神様の「恵み」、神様の「まこと」を貫かれたことを現しているのです。イエス様は「恵みと真理」に満ちたお方です。
 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」ヨハネ1:14

2003年12月14(日) 『神の子どもとされる特権』 ヨハネの福音書1:9-13

 このヨハネの福音書は1章でさっそくイエス様に対する人間の仕打ちが明確に書かれています。イエス様は、神様の心をそのまま表す「言葉」であり、神様の「いのち」を私たちに分かち合うお方であり、「希望の光」なるお方であるのに、人間は、そのお方を拒否し、必要ないと宣告し、つまり十字架に追いやるのです。
 しかしながら、ヨハネの福音書には、その拒否する人間を否定し断罪するのではなく、そういう人間に対する「福音」が書かれているのです。その福音というのは、赦しであり、癒しであり、神様との関係の回復として、「神の子どもとされる特権」というすばらしい内容が、提供されています。
 神様の子供という資格は、人間が普通、何の気なしに、他者と区別や差別に使う「資格」がすべて否定されていることです。血縁関や人間の持っている能力的な頑張りに依存しいないということです。イエス様に対して「私のために来てくださってありがとう」と心から告白できたら神様の子供とされる資格を得ているのだということなのです。
 恵みによって「神の子」とされ、それゆえに、受け取ることができるという「祝福」とはどんなものなのでしょうか。
 天地の創造主なる神を、父と呼ぶことのできる祝福、そのお方の保護、愛を受けながら、肉体を越えた永遠のいのち、永遠の絆を与えられている安心感、私たちが、本当は一番欲しいと願っている「自分の存在の安心感」「生きていて良いのだという安心感」が提供されているのです。これがイエス様が私たちのところに来てくださったクリスマスの最も大事な意味の一つであるといっていいでしょう。
 いつも共にいてくれるイエス様に信頼する安心感が与えられているのです。この安心感を、今年のクリスマスはしっかりと受け止めたいと思います。

2003年12月 7(日) 『ことば、いのち、ひかり』 ヨハネの福音書1:1-9

  「ことば」:ロゴスというギリシャ語で表現されているこの「ことば」には重大な要素がたくさん詰まっています。この「ことば」というのは、神様の持っておられる創造的力のすべてとも考えられます。また人間は言葉の動物で、言葉によって育てられ、言葉によって成長していきます。
 「ことばは神であった」とありますから、まさに、イエス様は、父なる神様のことば、神様の心を、表現するお方とでもいいましょうか、神様のこころを寸分たがわず、私たちに表現することができる、教えることがおできになるお方でもあるのです。
 また、私たちが、心に持っているすべて、ことばに表明できるすべてのものは、すでに、イエス様によって理解され、その私たちのことばに応えることがおできになることになります。
 「いのち」:イエス様は、「いのち」として紹介されています。この「いのち」はいわゆる肉体的生命ということだけを言っているのではありません。ヨハネは、神様からの命、霊的な命があることを前提にしています。あるいは、「神様と人との関係」という中に「いのち」の大切さをしっかりと教えようとしています。
 「光」:イエス様は、「光」として紹介されています。闇の中に輝く光は、私たちに安心をもたらします。また、光は、私たちのすべてを映し出します。そして、ここで分かることは、闇の力の現実性です。私たちを取り巻く状況にはいろいろな闇の力があります。たとえば、世のすべてを照らす光がやって来ても、自動的にすべての暗闇が消えてしまっているわけではありません。今日でも、闇の力は世界に蔓延しています。
 イエス様は、創造主の「ことば」の役割を担っておられ、信じる者に神様のいのちをもたらし、光、希望をもたらすお方なのだといいます。そのお方の誕生をお祝いするのがクリスマスです。このクリスマスの意味深さを味わうとき、なんとも心躍るときになるのではないでしょうか。