ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2004年1月]を短くまとめてのせています。

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2004年 1月25(日) 『父なる神様とイエス様』 ヨハネの福音書5章17節-29節

 イエス様と神様の関係がよくわからないと言う方がおられますが、ここは理解を助けてくれる箇所です。
 イエス様は父なる神様に代わって地上で働く方として来られたお方であるということです(5:19)。
 イエス様は、ご自分のことを世に知らるためではなく、父なる神様を紹介するため、「神様がどれほど大きな愛で私たちを愛してくださっているのか」「罪人であり、敵対関係にある私たちを神様がどういう風に赦し、どういう風に新しい関係を作ってくださるのか」という、私たちに対する愛と計画とを分かち合うことのために来られました。
 そして、その父なる神様の心は、一言で言ってしまえば、「死人を生かし、いのちを与えること」でした(5:21)。
 徹底的に愛にあふれたお方であり、徹底的に赦そうとしているお方です。「かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした」という放蕩息子を迎える父親の姿でもあります。
 その神様の愛を受けるための方法、つまり、救いはイエス様の言葉を聞き、父なる神様を信じ愛することによるのです(5:24)。何が出来ても出来なくても、イエス様の言葉を聞いて信じ、天の父なる神様に赦していただこうと祈ったら、その時から神様との関係が回復するのです。
 もちろん聖書の教えに基づいて父なる神様を理解することが大事ですが、それは、イエス様を信頼することによって、教えが心に届きますから、理解力とか悟りがなければダメだというものでもないのです。
 そのように提示されている神様の愛、イエス様の恵みをしっかりと感謝して受け止め、またその喜びを人々に伝えていく生き方が私たちクリスチャンの幸い、そしてクロスロード教会の使命であると改めて思わされます。(ヨハネ第一の手紙4:9-16)

2004年 1月18(日) 『床を取り上げて歩け』 ヨハネの福音書5章8節-18節

 当時の社会では、安息日の戒律を厳守するということは、日常生活の中では何より大事なことでした。しかし、この規定は、どちらかといえば「消極的な厳守」が強調されています。何kg以上のものを持ちあげてはいけないとか、何km以上歩いてはいけないなどと、禁止条項ばかりなのです。
 ところが、イエス様の律法理解、安息日理解は際立ったものでした。
 イエス様は安息日の規定を知らなかったわけではありません。基本的な姿勢としては、イエス様も安息日の規定を守っていました。しかし、例えば、いのちに関わる問題が存在していた場合には、安息日の規定よりも大きな「枠」でその状況を見ていたのです。
 ひとつの決まりや戒律には必ずふたつの守り方があるのです。消極的な守り方と積極的な守り方です。そして、それは外側の形で表明する、つまり「何かをしない」という消極的に安息日を守るということだけでなく、内容でそれを表明する、つまり「何かをする」という積極的な意味でもそれをしっかり守られたのです。
 ところが、そのような、相対する考え方を持つ場合、相手を受け入れることは難しくなります。このユダヤ人たちもそうでした。自分たちと同じ様に守れなければ、殺そうと考えてしまう、狭さ、その極端な画一性は、「原理主義的」発想で、実は教会にも、一番入り込みやすい危険の一つです。
 私たちは、自分で決めた律法や、人から言われた律法を守るものではなく、聖書に書いてある、神様の律法を守るものでありたいとねがいます。それはイエス様が示された愛の律法なのです。その聖書が教えているイエス様の愛の律法を受け入れることこそ、福音を信じることに通じます。そして救いがそこに届くのです。

2004年 1月11(日) 『起きて』 ヨハネの福音書5章1節-9節

 ベテスダという名前の池には、言い伝えがあって、時々、主の使いが池に降りてきて水を動かすことがあるのですが、その時最初に水に入った人はどんな病気だとしても癒される、というものでした。ベテスダ=「恵みの家・いつくしみの家」という名前がついていたのかもしれません。そこには病人や、やせ衰えた者が大勢いました。
 しかし、よく考えると最初に入れた人しか癒されないというのも皮肉です。一番弱く、一番助けが必要な人ではなく、一番になれる人が癒されることになります。救いを一番必要としている、弱い人、困っている人には届かない救いなのです。
 イエス様は、そのような場所で、38年間も伏せっている人を見つけ声をかけました。そしてこの病人の興味深い告白が7節に記されています。
 「自分を一番先に押し出してくれる人がいない。また自分自身では一番にはなれない。」という告白です。私たちにも通じている人間の本質的な悩みがあります。
 イエス様は、まさに、そういう存在のためにこそ、来てくださいました。他の誰も自分の事を考えてくれず、また、自分でも改善することすらできませんという人のためにこそ、イエス様は来てくださいました。
 そういう弱い、小さい、私たちに、イエス様は近づき、恵みの家の祝福を届けてくださいます。「起きて・・・」という言葉の背後に、「私は、あなたをいつでも最優先しましょう」「私はあなたの無力さを、愛と力で覆いましょう」と言ってくださるイエス様の心に目を留めたいものです。
 イエス様は、私たちに対しても、よくなりたいかと仰せになるのです。
 絶望せずに、開き直らずに「イエス様、私にはあなたの助けが必要です。」と答えられたら幸いです。

2004年 1月 4(日) 『神様の方法』 ヨハネの福音書4章43節〜54節

  ここに登場する役人は、病気の息子が医者からも見放され、途方にくれていたところに、イエス様が近くにいるというニュースを耳にし、彼は、急いでイエス様のところに来てお願いしにいきました。
 役人は、イエス様に「家に一緒に来てくれるように」とお願いしています。イエス様に家に来ていただきさえしたら、きっとその息子の病は治ると考えていました。
 私たちも、「イエス様がここにきてくれたらなぁ」などと考えることがあります。しかし、イエス様は、「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」(4:50)といいました。イエス様は一緒に来てくれない、イエス様は息子に会ってくれない、イエス様は私の思い
通りに動いてくれない・・・。
 役人の心には間違いなく葛藤があったはずです。自分の思惑通りに動いてくれないイエス様に対する不信感とそういわれたイエス様にしかすがることが出来ない状況。息子に会ってもくれないが、息子は生きるのだから帰りなさいと言われるイエス様の言葉、そして信頼と不安。もし、みなさんがこの役人の立場だったら、どうでしょう。
 イエス様の事の進め方は、必ずしも、私たちの方法と同じではありません。私たちが願っているような方法ばかりが最善ではないのです。イエス様の考えは、私たちの考え方と圧倒的に違うことがあるのです。
 自分の考えと違う進め方でイエス様がことを進めようとなさる場合、私たちは自分の過去の経験や自分のわずかな知識にこだわりすぎてはなりません。イエス様の愛と力を信じること、信頼すること、イエス様にお任せすること、そこにこそ希望があると聖書は教えているのです。そこに信頼を置く者は幸いなのです。