ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2004年2月]を短くまとめてのせています。

元に戻る


2004年 2月29(日) 『なくなる食物のためではなく』 ヨハネの福音書6章22節-29節

  イエス様はカペナウムで出会って、追いかけてきた人たちのその理由をずばり見抜きました。「しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。」と。
  この箇所から三つのポイントを読み取りたいと思います。

1.パンで空腹を満たして欲しい、という欲求は切実であり、そのことをイエス様に求めることは悪いことではありません。健康や食べ物や、住む家や、お金、教育環境、セキュリティ、すべての実際的なことは必要であり、決して悪いことではないからです。だからこそ、イエス様ご自身がパンと魚で大勢の人を養いました。しかし、イエス様は単に、私たちの肉体の空腹感を満腹させるためにだけこの地上に来たわけではありません。

2.もっと大切なポイントは何でしょうか。それは、永遠のいのちにいたるパンが大事だということです。なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物が大事なのです。そのために欠かすことができないこと、それは、イエス・キリストを信じるということです(29節)。

3.それでは、「私は昔信じたから救われる。」ということが言えるでしょうか。27節には「働きなさい」29節には「神のわざ」と出てきます。これは一言で言ってしまえば、「礼拝者となる」ということです。礼拝していること、主にしたがって生きていることは永遠のいのちに至る食物のために働いているということなのではないでしょうか。
私たちがイエス様に出会い、信じて受け入れ、礼拝者となり、イエス様と共に生き従って歩んでいくものとされるようにと、今日、神様は私たちを励ましていてくださっているのです。そこにこそ、私たちの希望があるからです。

2004年 2月15(日) 『湖の上で』 ヨハネの福音書6章16節-25節

 この湖の上での出来事は奇跡に類することですが、一体、著者ヨハネはこのことを記して、何を教えようとしているのでしょうか。三つのポイントがあると思います。
1.試練や困難は、神様からの訓練のときである。
 人生には困難がかならずあります。それは、もちろんクリスチャンになっても同じです。ではどうして神様は、ご自分の民に困難を与えるのでしょうか。それは訓練であり、励ましのときでもあるからです。湖の上で困難にあった弟子たちは、体験を通して大きな学びをしました。現代でも同じで、困難や苦しみといった訓練は個人的にも教会的にも成長の機会なのです。
2.イエス様が共にいてくださる。
 それは他の人には見えないかもしれないですが、イエス様は確かにそこにいてくださるということです。社会や家庭や、普段生活している場、もっと言えば、たとえば、湖の上でイエス様をお乗せしていない船のような、私たちがイエス様はこのような場所にはおられないと思われる場所にいてくださるのです。
3.心の支えというだけではなく、実際に助けてくださる。
 イエス様が一緒にいてくれるということは、遠くで見守っているだけではなく、実質的にも助けを送ってくださるということです。22節以降には、イエス様が心の中にいてくださったということではなく、本当に肉体を持ってその場に行って下さったと言う証拠として読むことができます。
 イエス様が共にいてくださると知るならどのような嵐の中、困難の中にも希望があります。いや、そこにしか本物の希望はないのです。
 「わたしだ。恐れることはない。」(ヨハネ6:20)

2004年 2月 8(日) 『いのちのパン』 ヨハネの福音書6章1節-15節

  パンの奇跡とか五千人の給食と言われる出来事が記録されています。
  イエス様は、群衆たちを見て、「空腹な集団」であることを知っていました。それは食事時が近かったばかりでなく、奇跡を見て、イエス様のところに押し掛けてくるような状況からも、彼らの心が何かによって満たされなければならないということをイエス様はご存じでした。そしてイエス様は、そこにいるすべての人のお腹と心を満たすお方でした。
  教会を訪れる人たちとはどんな人たちですか、と問われると、病気の人とか悩みをもった人、という答えが返ってくることがあります。それはある面で正しいといえるかもしれませんが、しかし正確ではありません。正解は、満たされていない人なのです。そして、実は、すべての人が満たされていないのです。もし、満たされているといったらそれは、一時的に炭酸でおなかがいっぱいになっているように、擬似的に満たされていると思っているか、もしくはそう言い張っているかなのです。私たちを造ってくださった神様との正しい関係なくして、また、いつかは必ず訪れる死に対しての解決なくして、本当に満たされているとは言えないのです。
  イエス様はまことの命のパンであり、心を満たすことが出来る唯一のお方であって、また救い主である方なのです。聖書にはそう示されています。満たされてない人たちが心も身体も、イエスキリストと言うお方によって満たされるというのです。神様にささげられたご自身のからだ、やがて十字架に掛けられ、私たちの罪のために打たれ、裁かれるイエス様の体、それによって、私たちの心は安らかになり、まさに、そのパンのゆえに救いがもたらされるのです。
  私たちは、今日、今、満たされていますか?命のパンであるイエス様によって心に喜び、感謝、希望、やさしさ、祈り、誠実さ、聖さ、讃美・・・そして愛が満たされているでし
ょうか?

2004年 2月 1(日) 『聖書の証言』 ヨハネの福音書5章30節-47節

  イエス様は、「自己宣伝」で有名になったわけではないし、自分勝手な理由付けで自分を神の子としているわけではありませんでした。しかし、なぜ「自分を神の子」だと言えるのでしょうか。普通その根拠が必要です。当時の宗教家たちは、実は、その根拠を探そうとしないまま、絶対的に、断固としてイエス様の主張を拒否してしまっているのです。反対者が、イエス様に対して怒っているのは、「嫉妬」であり、自分たちの今までの教えや生き方が覆されるかもしれないという「恐れ」があったからかもしれません。
  イエス様は、私が自分で自分を作り上げ、神の子としているわけではないと言明しています。イエス様は、ご自身について「証言」しているものがあると言いました。そのうちの一つは「父がわたしに成し遂げさせようとしてお与えになったわざ、すなわちわたしが行なっているわざそのもの」(5:36)が、証言しているというのです。つまりイエス様の言葉、生き方、そして教え、奇跡、態度です。
  そしてもう一つは聖書(旧約)でした。イエス様は、「あなた方は聖書はよく調べている
けれど、全然神様のことがわかっていません」と当時の宗教家たちに語っているのです。何が問題なのでしょう。それは「神様に愛され、赦されている」ということが、どれだけ重大なことになっているか、どれだけ、神様の家族とされていることを感謝しているか、神様との関係が、うるわしい状況になっているかどうか?ということにあるのです。 聖書で神様が語られていることはイエス様が唯一まことの救い主で、そのお方を信じなければ、そのイエス様によってでなければ救われないということです。
  聖書から神様が語ってくださっていることを聞く、神様の心を知ることが大事なのです。