ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2004年3月]を短くまとめてのせています。

元に戻る


2004年 3月28(日) 『わたしの時、神様の時』 ヨハネの福音書7章1節-9節

  イエス様の評判は、群衆からは高くなっていても、宗教指導者たちからの評価は「ねたみ」が混ざりあい「殺してしまおう」という計画が顔を出します。
  またイエス様の兄弟たちからは、有名になることを考えたらどうかと身内らしい提案がされます。有名になること自体が悪いわけではありませんが、有名になることこそがすばらしいと考えてしまうことについて、イエス様は否定しています。
  イエス様には神様からの計画がありました。イエス様にはきちんとご自分の使命の達成のためのスケジュールがあったのです。イエス様の使命は十字架の死と復活で完結するということです。そして、私たちの罪を赦すということのためにきてくださったのです。イエス様の心の中には、自分の評価とか自分の成功とか、有名になるとかは全くなく、父なる神様の心を実行すること、父なる神様から託された使命を実行することだけしかありませんでした。
  イエス様は、自分がどこで何をなすべきなのかご存知でした。だからこそ、「私の時はまだきていません」と語っているのです。
  イエス様に似るものとなるということは、クリスチャンのもっとも大切な目標の一つです。イエス様のように、神様がしっかり自分を促し、その道を示してくださる時こそ動くべき時なのだという信頼、信仰が大事なのです。それを自分勝手に決めてしまったり、待ちきれなくなってしまうことが多いようです。私たちもイエス様が「わたしの時」といっているそれぞれに備えられている神様の時を信じ信頼して、歩む信仰生活を送り続けたいものです。

2004年 3月21(日) 『私たちの信仰』 ヨハネの福音書6章60節-71節

  今週のみことばは「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。」(68)というペテロのイエス様に対する言葉です。
  弟子たちがイエス様に躓き、イエス様から離れていく様子が淡々と書かれています。彼らは、反感を感じあるいは、絶望し、また、「いのちがけ」でついていくことを求められているということに気づいて、イエス様を捨てたのです。
  決して、イエス様は神様だから、こんな人々の裏切り、躓きに心を痛めていなんだということはありません。イエス様は、途方にくれるような感覚で、弟子たちに質問されたのではないでしょうか。
  そのような時、ペテロはイエス様に付き従っていくことを表明します。そして、そこにあるのは、イエス様を政治的な王様としてではなく、自分で利用するためでもなく、神様のことばをもって信じるものを生かすことのできるお方として信じていることを表明しているのです。
  イエス様、あなたこそ、あなただけが「わたしたちを永遠に生かす言葉をお持ちです。」
と告白します。これは、イエス様への人間的な利害関係や評価ではなく、イエス様に対する、また、神様のことばへの信頼、信仰の表明なのです。
  私たちには、この世を生きるために様々な言葉を用い、またそういった言葉が必要です。
  しかし、イエス様だけが、「永遠のいのちを与える」言葉をもっているのです。私たちは、永遠のいのちを持っているお方であるイエス様に命の限りあなたに従いますという告白でもあります。
  まさに私たちの信仰として、日々告白しながら歩み続けていくならば、その信仰は、成長し続けます。そのような者として歩んでまいりたいと願わされます。

2004年 3月14(日) 『まことの食物、飲み物』 ヨハネの福音書6章41節-59節

  この6章のテーマ「わたしがいのちのパンです」という、大事な聖書のメッセージの核心部分、いよいよイエス様が語りたいもっとも重要な部分に入ります。
  1)イエス様のからだ、血:イエス様の自分のからだ、血を食べるとか、飲むとかいう表現は、イエス様のいのちを引き継ぐという意味があります。ふつうのパンでも、昔のモーセの時代のパンでもなく、永遠のいのちを提供するパンとしてここにいるのだとイエス様は語っているのです。もう一歩踏み込むと、イエス様が語った、肉と血は、イエス様の十字架における苦難と犠牲が意図されていることが分かります。イエス様は打たれ、裂かれ、血が流されることによって、神様からの裁きが執行され、なだめの供え物としての役割を果たすのです。
  2)食べる、飲む:イエス様が、私の肉を食べる者、血を飲むものと仰っているとき、それは、身代わりになって死なれたイエス様を、自分のためであったと信じなさいという勧めでもあるのです。神様からの裁きやのろい、怒りが、すべてイエス様によって中和されてなくなることを意味しています。それを、信じて、受け取ることが重要なのです。心を開いて、自分の罪がイエス様の十字架の苦難と身代わりで赦されたことを感謝し、そのイエス様に身を委ねるそのときから、イエス様の約束のすべてがあなたのためのものとして有効になるのです。
  3)永遠のいのち:イエス様の大きな犠牲による罪の赦しによって約束されているものは、永遠のいのちです。その赦しを感謝します、と心から祈れたとき、イエス様が私たちに求めている存在になったことになるのです。そして、永遠のいのちをイエス様から受け継ぐことになるのです。
  私たちクリスチャンとなったものは、永遠の命の中を歩み続けているのです。
クリスチャンになられていない方も、イエス様のからだ、血を食べる、飲む、つまり受け
取るなら、同じように私たちの言葉や映像では表現し得ない、永遠の命にある平安が与えられるのです。

2004年 3月 7(日) 『わたしがいのちのパン』 ヨハネの福音書6章28節-40節

  27節のイエス様の言葉を聞いたユダヤ人たちは、試そうとしたのか、本心から興味惹かれたのか、旧約聖書の話題でイエス様に挑みます。これは旧約聖書の出エジプト記の「マナ」という食べ物についての記述です。イスラエルの人が神様に食べ物がほしいと文句をいい、それに対して神様が与えた不思議なパン、それが「マナ」でした。ところが、エジプトの奴隷状態からマナをふらせて救い出したのが神様ではなくて、モーセであったと考えているのです。
 そしてここでも同様にイエス様を永遠の命をもたらす救い主としてではなく、ローマ帝国の支配から救い出すヒーローとしたかったのです。
 「わたしがいのちのパンです」という発言はちょっとおもしろい表現で、自分が他人に食べられるということになります。そのパンを食べるとは、イエス様を受け入れ、信頼することと同じ意味があるのです。まさに、そのためにこそ来たと言うのです。
 ご自分のいのちで、祝福が人々に与えられることをイエス様は知っていました。まさに、それは十字架において、私たちの罪を担い、罪の赦しと永遠のいのちを与えるために自分のいのちをささげることを前提として語られているのです。
 毎月礼拝の中で行われている聖餐式は、このことを教えているのです。その時には、イエス様の体とイエス様の血ということを表現し、パンとぶどう酒が提供されます。このお方を信頼することによって永遠のいのちという希望が与えられるのです。
 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(ヨハネ6:35