ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2004年4月]を短くまとめてのせています。

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2004年 4月 25(日) 『生ける水』 ヨハネの福音書7章37節-52節

  「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」ヨハネ7:37,38
  自分の心の中に、いろいろな種類の「渇き」があることに気がついているでしょうか。しかし、自分自身の心に潤いがなく、自分の精神的なゆとりがない、自分の心が枯渇してしまい、他者を思いやることも、自分を慰める力もなくなってしまっている状況に気が付いていないことが多いのではないでしょうか。私たちの一番の課題は、心がおだやかに、平安になること、心の渇きが満たされること、潤されることなのかもしれません。
  イエス様は、そういう課題を持っている私たちに、大声で語ります、「私のもとにきて飲みなさい」と。これは「私に信頼し、私の言葉を信じなさい」という勧めです。マタイの
福音書では「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)と言っています。
  私たちの心が渇いてしまい、人を愛せず自分さえも赦せなくなったとき、私たちには、イエス様に逃げ込むことができるのです。イエス様は信じる者の心に来てくださいます。ですから、イエス様に祈り、イエス様を礼拝し、「イエス様、私の心は渇いています。助けてください。」と真剣に祈ることが出来たらよいのです。
  イエス様を信頼するならば、きっと心に希望が生まれます。そして潤され、それによって、他者の心も包み込むことができる心の奥底からわき上がるいのちの水が川のように流れ出る、とイエス様が大声で語っているのです。イエス様に信頼し、いつもつながっていること、そこに希望といのちがあるのです。

2004年 4月 18(日) 『うわべではなく』 ヨハネの福音書7章9節-36節

  二つのポイントを挙げたいと思います。一つ目は16,17節です。
16,17節には、イエス様の心は、父なる神様の心を世に知らせるという「使命」のために遣わされているという役割意識を持って働かれています。実は、神様から遣わされているのは私たちも同じです。私たちは、人々を祝福する役割をにないつつ、社会に、家庭に、世界に、イエス様によって、しもべとして遣わされているのです。そういう自覚はとても大事です。
  二つ目のポイントは24節です。「うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。」とあります。
  イエス様は人々が、イエス様のうわべをみて評価し、いわゆる奇跡を起こしてくれるかどうかという視点ばかりで近づいていることを知っていました。
  私たちは、うわべだけの評価で物事を解決しようとする傾向を少し改めることが必要です。表に見えることばかりでなく、見えない世界に起こっている事柄に心を向けることが必要なのです。そうしないと偏見に満ちた見解があふれてしまうことがあるのです。これは大変重大な問題を生み出します。物事について簡単に白か黒かという判断を下すのは大変危険です。うわべだけで判断することに慣れてしまうと、偏見を持ちやすくなり、断定的となり、まちがった判断をくだすことがあるのです。
  彼らは落ち着いてイエス様の言葉に耳を傾けることをしませんでした。うわべで判断することが楽で、自分の枠を守り続けたのです。
  私たちもその聖書の教訓から、イエス様を自分の枠の中に納めようとするのではなく、自分をイエス様の枠の中に納め、思慮深さ、慎み深さ、主を畏れる心を抱き、イエス様に心を開いて、心を変え続けてもらうならば、祝福と成長が導かれるのです。

2004年 4月 11(日)

イースター

『十字架と復活』 コリント人への手紙第一15章1節-11節

 聖書は、キリストが来てくださったのは、まさに、私たちの罪のために、その裁きをご自分で引き受けるために、身代わりになって打たれてくださるために、十字架にかかってくださったのだと教えています。私たちの「罪のために、死なれた」という言葉は、本当に重い言葉です。
 イエス様は、私たちに永遠の命をもたらすために、私たちがまだ罪人であったとき、私たちの罪の精算を神様とするために、自分のいのちを掛けてくださいました。本当は、私たち自身がその十字架の苦しみを受けて当然だったのですが、キリストが身代わりになってくださいました。
 そして、死んだからこそ、イエス様の復活には意味があるのです。死んで、処分された、そんな状況の中から、新たな出発を宣言してくださいました。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)とイエス様は語られました。復活は、罪の決済のためのすべての犠牲が神様に受け入れられたということを意味します。そして、その復活の出来事は、罪の力、死の力、悪魔の力よりも、はるかに、力強い、「救いの力」「救い主イエス様の力」の証明でもあるのです。
 聖書はなまなましく、よみがえられたキリストは今も生きているので、今、この時代に生きている私たちに向かって、キリストご自身が、「わたしはあなたを愛し、あの十字架であなたの罪を購いましたよ」と言ってくださるのです。お一人お一人の苦難や、世の中で様々な状況を見る時に、神様は私たちを見捨てているのではないかと思うこともありますが、そうではありません。
 キリストの十字架と復活、ここにこそ、救いの本質が隠されています。まさに、十字架と復活は、私たちの希望の土台なのです。

2004年 4月 4(日) 『十字架、イエス様の死の特殊性』 ローマ人への手紙5章5節-11節

  パウロは、イエス様が死んでくださったのは、私たちが「まだ弱かったとき」(6節)と言っています。この「弱い」という言葉は、無能力という意味があります。私たちが、自分の力で神様との関係を修復することが出来ないということです。
  また「不敬虔な者のために死んでくださいました」(6節)とあります。この「不敬虔」という言葉はとか「神嫌い」と置き換えられる言葉です。そんな私のために、キリストはいのちを掛けてくださいました。
  「私たちがまだ罪人であったとき」(8節)とも言っています。罪とは的外れ、また神様の求めに対して、反抗心、自分のことばかり大事にする思いで神様の心など無視する姿勢を崩さないで生きている人たちを指します。そして、聖なる神様は、罪を憎んでおられます。
  さらに、「神様の敵」(10節)として生きてきたのだということがパウロによって語られています。神様に対して、人間は大胆にも「宣戦布告」しているのです。
  しかし、それにもかかわらず、イエスキリストは、そのような私のために、神様との和解の道を造るため死なれたのですキリストの「十字架の死」は、神様の敵として生きてきた私たちに「神様との和解」をもたらすための死だったのです。つまり、「神様との平和」を作るための死だったのです。
  イエス様は、あなたを愛し、あなたそのものとして、十字架の上で神様からの罰をうけ、呪いを受けたので、あなたは赦されていますよ。とおっしゃってくださるのです。そこに救いがあるのです。そして、救いをもたらすのは十字架のキリストだけなのだと聖書は語っています。ここにこそ、救いがあることをしっかりと受けとめ、十字架を意味あるものとして心にしっかりと保ち続けてまいりたいものです。