ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2004年5月]を短くまとめてのせています。

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2004年 5月 30(日) 『神のわざが現われるため』 ヨハネの福音書9章1節-12節

  生まれつき目の不自由なこの人を見つけて、弟子たちは言います、「だれが罪を犯したからですか」(2節)と。ここに、無責任な第三者的な意識が隠れています。他者の悲劇を見て解析しても、それだけでは問題の解決にならず、むしろ知っているという傲慢に陥るのです。そこには好奇心とか興味しかなく、哀れみや愛はないのです。
  もちろん私たちの同情や共感というものは限界があります。報いを求めず、共感し、同情するということは、非常に難しいことです。
  イエス様は、大変強烈なことを言われました、「神のわざがこの人に現われるためです」(3節)と。障がいや不幸の根源は「罪」にあるという、当時の常識を覆す言葉です。当時だけでなく、現代の私たち自身の持っている感覚にも鋭く切り込みます。障がいや、不幸の中に、神様からの希望や祝福があるのだと語ったのです。
  すべての病気、障がい、困難、災難は、罪を根源とし、人間にはどうしようもなく、神様にでもどうすることもできないという諦めの空気が満ち溢れている状況の中、イエス様は、それらの中にこそ「神の業が現れるのだ」と宣言しているのです。
  シロアムの池(=「遣わされた者」)で洗うとは、神様から遣わされた救い主イエス様のところで取り扱っていただく、罪を洗ってもらうということの象徴であります。
  まさに、「光はやみの中に輝いている」(1:5)という出来事そのものです。様々な状況の中で、人からの慰めを越え、人からの批判や分析に耐えながら、心の中にイエス様から、「大丈夫。この出来事によって神のわざが現れる」という言葉聞くことができたら、その辛く、苦しい出来事の中に光が照るのです。そしてそれは、イエス様との個人的な出会いの中でのみ、経験できるものです。そのように歩み続けたいですね。

2004年 5月 23(日) 『Free In The Truth』 ヨハネの福音書8章31節-59節

  ユダヤ人たちは自分が無知で不自由な奴隷だとは考えていませんでした。しかし本当は、心は満たされておらず、他人を生かすことに興味はなく、その行為も心も不自由でしたがそれを自覚していなかったのです。
  イエス様は、見抜いてメッセージを語りました。
1.「わたしのことばにとどまるなら」(31)とは、イエス様を信じるということです。イエス様を信じるということと、みことばを信じるということは分けることができません。イエス様の弟子とは、イエス様の言葉を信頼しながら歩む人だからです。
2.「真理があなたを自由にする」(32)とあります。偽りは私たちを迷わせますが、真理は正しい道に導きます。自分の存在、自分の状況や問題、なにが自分を不自由にしている根元的な問題なのかということを、真理を通して知らなければ解決はありません。真理を知ることからすべてははじまるのです。
3.「子があなたがたを自由にする」 (36)とあります。奴隷がどんなにがんばって、「俺たちは自由だ」と騒いでも圧制されてしまいますが、その家の主人の息子があなたは自由だと言われたなら、その人は解放されるのです。つまり、奴隷状態から解放する権威、権能をおもちのイエス様だけが私たちの不自由を解放し、罪を赦し、罪の奴隷からも、無知の奴隷からも解放してくださるお方なのです。
  イエス様がもたらしてくださる真理に基づく自由、解放は、頭だけの出来事ではなく私たちの全生活に影響を及ぼす絶大な祝福なのです。だからこそ、イエス様の救い、奴隷状態からの解放、罪からの解放が私たちには必要なのです。どんな問題の奴隷状態になっているとしても、イエス様の中に解放があるのです。

2004年 5月 16(日) 『イエス様が行く所』 ヨハネの福音書8章21節-30節

  私たちのアイデンティティーに関わる本質的な問いの一つは、「私はどこから来て、どこに行くか」というものですが、それは、「イエス様がどこから来て、どこに行くのか」、ということを真剣に考えることが大変重要です。それが明確にわかると、そのお方によっ
て私自身がどうなるのかということがわかるからです。
  イエス様は、ご自分が天から地に下り、さらに地から黄泉(よみ)に下り、よみがえって、天にお帰りになるということを知っておられたのです。そのイエス様は、同時に「もし
あなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」(24) と語りました。私たちは、自分が「救われなければならない存在だ」ということについての自覚があまりないでこの言葉を受け入れることが難しいのです。しかしすべての人は間違いなくイエス様による罪の赦しの福音を心に信じる必要があります。
  イエス様はそういう人を軽蔑せず、そういう方たちのためにこそ、十字架であなたの罪の裁きを引き受けてくださったのです。
  エペソ2章5節6節に、「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、・・あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。・・キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」とあります。
  私たちは、神様のかたちに似せて造られた存在で、そこから私たちの存在が始まっていますが、罪の結果として、行くべき場所を失った、いや、行ってはいけない方に向かっているのです。だから、私たちはイエス様を信じることでしか、「イエス様のいるところに一緒に行く」ことができないのです。
  今日もイエス様を信じて、イエス様の御跡に従って歩み続けましょう。

2004年 5月  9(日) 『世の光』 ヨハネの福音書8章12節-20節

  「私は〜です。」(エゴー・エイミ)というご自分を表す表現の中でも有名な言葉のひと
つ、「わたしは、世の光です」という箇所です。
  <わたしは世の光>コロサイ人への手紙の中で、「私たちを暗やみの圧制から救い出し」(1:13)とあるように、この世の中は「暗闇の圧制」のもとにあると言えます。暗闇の圧制とは、希望の見えない状況に追い込まれており、いのちではなく死に向かわせる力にうち勝てない状況の中に置き去りにされている状況です。光なるイエス様は、そういう状況にいる私たちに対して、「私がそこに希望をもたらす光なのだ」とおっしゃっています。
  <わたしに従う者>イエス様に従う、の従うとは従い続けるという意味があります。継続的に、毎日、毎日、イエス様と関係を深めていくことが大事なことなのです。そうしたら、「決して闇のうちを歩むことがない」とは、絶望状況に置き去りにされることがないと
いうことなのです。
  <いのちの光を持つ>イエスキリストを信頼するなら、「いのちの光を持つ」という表現は、イエス様ご自身のいのちが私たちの内側に注ぎ込まれて、イエス様を生かしているいのちそのものが、私たちの中に輝き始まるという意味を含んでいます。また、聖書は、御言葉こそ、心に光をもたらすものとして教えています(詩篇 119:105、130)。
  イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)という、この
みことばの通りに歩み続けるものとされるならば、私たちの歩みは、暗闇の中にあって、絶望することなく、希望と光と、そしてまことのいのちを持つ歩みとなるのだと聖書は言っています。その歩みを着実に一歩一歩進めるクリスチャンとされるならば幸いです。

2004年 5月  2(日) 『罪に定める者』 ヨハネの福音書7章53節-8章11節

  律法主義者たちは、おとしいれるためだけにイエス様を試す質問をします。これは、姦淫という罪に対する憤りよりもイエス様に対する悪意にいかに満ちていたかということです。そして答えがイエスでもノーでもケチを付けられるのです。
  ここに出てくる女性は、おそらく、殺されるかもしれないという恐れだけが心にあふれていたと思います。しかし、律法学者にとっては、彼女の存在はどうでもよかったのです。名前も、姦淫の理由や背景を調べるでもなく、おとりとして使われる、悲惨な状況でした。
  イエス様は、宗教家たちが興奮して、「どうするんだ。この女を赦すつもりなのか?処分するつもりなのか」と言い寄ってくる状況の中を無言で通しました。
  そして「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(7節)とお答えになりました。イエス様は、その女性を無視していません。宗教家の言い分も無視していません。
  さらに、イエス様は、誰もいなくなった場所にうずくまっている女性に声をかけます。そ
して、「わたしもあなたを罪に定めない」という言葉を語ります。イエス様が、この女性
を石打に定めない理由、それは、イエス様がこの女性の罪の代価を十字架で払うからです。
  私たちも自分の生活、自分がしてきたこと、自分がしていることを振り返りたいと思います。そして、他の人への目ではなく、自分への、そしてイエス様へ、しっかりと目を向ける必要があります。私たちを赦してくださる、イエス様の十字架の恵みを心に深く味わいながら歩み続けたいと思わされます。
  罪に定める者はイエス様お一人で、そのお方が「罪に定めない」とおっしゃっていることにしっかりと目を向けて歩むことが出来ますように。