ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2004年6月]を短くまとめてのせています。

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2004年 6月27(日) 『イエス様に信頼して』 ヨハネの福音書10章22節-42節

  「わたしと父とは一つです」ということばが30節に出てきます。この言葉は、当時のユダヤ人にとっては、理解を否定したくなるような言葉なのです。それは、神様を遠くの、違いすぎる、関わりのない、名前も口にできないような存在にまつりあげてしまったからです。つまり神様の愛も慰めも赦しも手の届かないところにある、私たちの現実的な生活には何の祝福ももたらせない、私たちと無関係な神が作り上げられてしまうのです。
  そしてイエス様はさらにへりくだって、心をかたくなにしている人たちに対して、イエス様は「もしわたしが、わたしの父のみわざを行なっていないのなら、わたしを信じないでいなさい。しかし、もし行なっているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。」(37,38節)と語ります。
  イエス様は人々のそして私たちの弱さを知り、「よく考えなさい。よく検証しなさい。」と語っています。ですから私たちは、イエス様が語ったことの本質は何なのか、本当のところ何を言いたかったのか、伝えたかったのか…といったことなどを知ること、学ぶこと、聖霊の助けを求めながら確認していくことが大切なのではないでしょうか。そしてイエス様が表す、神様の愛と真理と赦しをしっかりと受け止めたいものです。父なる神様は、私たちの人生に深く関わり、助け、不正を正し、新しく造り変えようとし、その愛を示すためにイエス様を十字架にかけて身代わりにまでされたのです。
  決して無関心な、遠い存在ではありませんから私たちは身近で小さな出来事においても、主により頼むことが大事なのです。大きな大きな神様の愛に委ねて、命を投げ出してくださった「イエス様に信頼して」歩んでまいりたいと思わされます。

2004年 6月20(日) 『いのちを豊かに得るため』 ヨハネの福音書10章7節-21節

  10節に「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」とあります。羊飼いであるイエス様は、私たちのいのちを守り、豊かないのちを提供するために来てくださいました。私たちの「いのち」というのは、心臓が動いているということによって自覚できる肉体的ないのちだけではなく、信頼できる存在であるイエス様を通しての神様との交わりの回復です。別の言い方をすると罪の赦し、神様の子供とされること、永遠のいのち、神様の約束といった「天にある様々な霊的祝福」で、私たちのいのちを本当に豊かにするものです。
  そして、そういう祝福をもたらすためにこそ、イエス様は死ぬこと、十字架でいのちをささげることが必要だったのです(11節)。私たちのすべての罪の代価を支払うためにイエス様は十字架に掛けられたのです。
  それに続いて16節に「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。」とあります。選ばれた民であるとか、様々な働きに従事したとかそういうことは素晴らしいことかもしれませんが、そういう人たちだけでなく、何も出来ない羊である私も、あの人もこの人も、イエス様の目からは本当に重要な存在なのだということです。そしてそれは、私を受け入れてくださったように、自分の隣にいる人も受け入れてくださっているということでもあるのです。
  私たちが、まことのいのちを得、それを豊かに持つことは本当に得がたい恵みでありますが、それを得させてくださる、イエス様にいつも信頼して、信仰を持って、歩みたい、歩み続けたいものです。

2004年 6月13(日) 『羊の牧者』 ヨハネの福音書10章1節-6節

  当時の「羊飼い」を気取っていた宗教指導者たちに向かって強烈な言葉を語りました。イエス様は、ご自分を本当の羊飼いとして提示しておられますが、よい羊飼いの特徴としての大事な要素が語られています。
1.「羊はその声を聞き分けます。」(3節)「羊は、彼の声を知っているので」(4節):羊飼いは、羊に頻繁に声を掛けます。声を掛けるという行為は、人の心を安心させるために必須です。子供でも大人でも「無視」され続けたら必ず精神的なダメージを受けます。コミュニケーションは人間に基本的信頼関係と安心を感じさせる重要な意味を持つのです。
2.「羊をその名で呼んで」(3節):羊飼いは、個々の羊の名前を知っていてくださいます。自分の名前を知ってくれている存在は、あたかも自分のすべてを知ってくれているかのような安心感を与えてくれます。イエス様は、私たちひとりひとり個別に名前を知っていてくださり、全存在を知っていてくださるお方なのです。
3.「その先頭に立って」(4節):羊飼いは羊たちの先頭に立ちます。時には道なき道を探しだし、どこに向かっているのかしっかり知っていて道を造りながら進むということもあります。先頭に立っていくというのは、先を歩いて行くということだけでなく、模範を示す
ということも意味します。
  イエス様こそ、信じるものにとっては、よい羊飼いなのです。慰めや励ましの声をかけてくださる、自分の存在をありのままで受け入れ、名前を呼んでくださるイエス様を感じていますか。
  私たちに希望をもたらすために、先頭に立ち、敵と戦い、道を開き、しかるべき安息の地にまで導いてくださるイエス様に信頼を置いているでしょうか。
  安心と希望がここにあるのです。

2004年 6月  6(日) 『見える目、見えない目』 ヨハネの福音書9章13節-41節

  視覚障害者の目が見えるようになっても、これが「安息日」になされ、モーセの律法に反するということで、律法学者たちはイエス様を責め立て、イエス様を否定すると言う立場でしか、ものを考えることができなかったのです。
  いのちの回復、神さまを礼拝する人が起こされる、ということは、それが何曜日に起こっても本来すばらしいことのはずなのです。律法学者たちのこの男性とその両親への発言を見ていくと(9:10、12、15、17、19、24、26、28、29そして34)、どう考えても、善意や愛、癒されたことへの喜びや感謝は感じられません。
  逆に癒しを体験したこの人の発言には、イエス様への感謝や信仰姿勢、そしてイエス様の側に立った発言に変わり最後には、イエス様を預言者、そして救い主であることを告白しています(9:15、17、25、27、30−33、36、38)。
  人が何と言おうと、この人にももたらされたイエス様の恵みと祝福は、「感謝すべきこと」だったのです。この人は知らず知らずにイエス様を弁護し、イエス様こそが自分を癒してくださった神さまからの救い主だということを明確に理解し始めています。イエス様が癒してくださった、イエス様が開いてくださった、イエス様が救ってくださったと、正直に、純粋に信仰表明することはとても大事です。ただ、告白するだけではなくて、心からそのように思い、それがにじみ出てくるのです。
  見えなかった目が「見える目」になり、見えていたはずの目が「見えない目」になってしまう、それはイエス様の言葉とイエス様の業によって起こったのです。そして今も起こるのです。「見える目」を、いや「イエス様によって見えるようになった目」を持ち続けて歩みたいと願わされます。