ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2004年7月]を短くまとめてのせています。

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2004年 7月25(日) 『霊的な礼拝』 ヨハネの福音書12章1節-8節

 マリヤはイエス様の足に高価な香油を塗りました。この出来事は、マリヤのイエス様への感謝や礼拝の心の表明ではないでしょうか。しかし、それはユダや他の弟子たち(マタイ6:8,9など)にとって、無駄な行為、もったいない行為として責められるものとなりました。
 イエス様は、マリアの行為を非難しませんでした。そして、マリヤの愛にあふれる行為に対して別な意味を付け加えて、イエス様にとってとても重要な出来事と認識してくださいました。つまり、イエス様の埋葬の準備のための香油という理解をしてくださったのです。
 マリヤは自分にとっては精一杯のことをしましたが、イエス様を意図的に驚かせようとか、まもなく訪れようとしている死と埋葬という出来事を知っていて、そのために香油をとっておいたというわけではありませんでした。しかし、紛れもなく、マリヤが考えられる
最善をイエス様に感謝の心を込めてささげたささげものでした。
 実は、礼拝に参加している私たちにむかって誰かが「もったいない」と言っているかもしれません。しかし、私たちが何気なく、ささげたものが、単なるそのものの価値を越えて大きな意味や価値を持つことがあります。反対に、思いがけず、出てしまった心ない言葉ひとこと、ささげなかった物や献金、がそのもの自体の意味や価値を越えて、私たち自身の精神的貧困を露呈してしまうことも多くあるということです。
 神さまを愛するということは、自分自身をささげること(ローマ6:13,12:1)、すべてをささげて礼拝をささげるという姿勢の中に具体化されます。私たちが「礼拝者として生きる」というのは、マリヤのような心、礼拝する姿勢をもって歩むことです。そうすれば、イエス様から喜ばれるだけでなく、自分の心に喜びと平安が豊かに訪れるのです。

2004年 7月18(日) 『人の計画と神様の預言〜身代わりの死〜』
                                                
ヨハネの福音書11章45節-57節

 人をよみがえらせたという奇跡そして、人々がイエス様のもとに集まってくるのを見て、当時の宗教指導者たちの心は、嫉妬や保身の心が充満していました。自分たちが批判され、大暴動となり、ローマ兵たちを介入させ、ユダヤ人としての宗教的土台をめちゃくちゃにしてしまうことを恐れたのです。
 そして手っ取り早く臭い物に蓋をするように、イエス様を殺すことを考え始めます。ちょうど、その年の大祭司の役割を担当していたカヤパが、不思議なことを言いました(49,50節)。もちろん、これは彼が考え、ひらめいたことを語っているわけですが、同時に、神様の不思議な介入によって語らされている言葉です。
 イエス様は殺されることになるのですが、その死は実のところ陰謀による死というよりは、最初から神さまによって計画されていた「身代わりの死」でした。
 イエス様が人々の身代わりとなる、身代わりに死ぬ、身代わりに罪の刑罰を担う、身代わりに呪われる、身代わりの裁かれるというのです。それを大祭司が預言しているのです。
 本来、私たちが死ななければならなかったはずの死をイエスキリストが身代わりに死に、加えて、神さまの裁き、罪への怒り、呪いなどが全部イエス様の上に乗せられるということです。
 イエス様は、完全な誠実さをもって、身代わりに十字架で神様からの裁きと怒りを引き受け、それによって解放されるための道を作りますと言ってくださり実際にそれを実行してくださったのです。
 私を愛し、私たちの身代わりに罰を、怒りを、呪いを受けてくださるお方がいるのです。その愛が、今週も私たち心に届き、満ちたりて、祝福があふれますように。

2004年 7月11(日) 『イエス様の涙』 ヨハネの福音書11章25節-46節

 イエス様が友であるラザロが死で直面なさったこと、それは絶望と悲嘆、死を前にして、全く無力な人間の姿でした。イエス様は、人々が「死」という現実にうちのめされている状況に対して、深く憤りを感じ、心の動揺を感じて(33節)いました。さらには、神様への不信をもたらしていること(37節)にも、霊の憤りを感じるのです。
 そして、イエス様は涙を流された(35節)のです。その涙の陰にあるものは、「愛」であり「いつくしみ」であり、人間の痛みや無力さを担う救い主としての同情的なやさしさであり、イエス様の「死に翻弄されている人間に対する深い優しさ」なのではないでしょうか。人は、配偶者の死、子供の死、親の死、大切な人の死にたしても、悲しみ、絶望、苦しみ、というものを感じるのです。自分の死に対して「恐怖」を持たない、あるいは恐怖を隠してしまえる人であってもやはり、愛するものの死には痛みを感じ、すがりたくなる思いが沸いてくるのです。
 聖書は、イエス様が、そういう人の苦悩を包み込み、言葉にできないようなうめきを聞き、きっと「涙」してくださるといことを示しています。それは、私たちの苦悩の先に、理解者であるイエス様がいてくださり、そして、涙をぬぐい去ってくださると言うことを意味します。
 そしてそれだけにとどまらず、イエス様のおっしゃったとおり、人々は神の栄光を見たのです。すなわち、人を生き返らせるイエス様の力を目の当たり見たのです。私たちの救い主は、優しい涙の持ち主であるばかりでなく、文字通り、キリストなるお方として私たちを生き返らせ、造り変え、新しいいのちへと移すことのできるお方です。
 そしてそれを信じて歩むものの幸いは計り知れないのです。たしかに信じて歩みましょう。

2004年 7月  4(日) 『いのちをもたらすことのできる方』 ヨハネの福音書11章1節-29節

  イエス様は、「わたしを信じる者は・・・」と仰い(おっしゃい)ました。マルタは、ラザロの死に動転し、何をどう考えたらよいのかわからなくなっていました。
 イエス様は「わたしを信じる者は、死んでも生きる」と仰いました。聖書の教える信仰のあり方の基本中の基本が書かれています。それは、キリストご自身を信頼することです。
 そして、イエス様こそ「いのち」「よみがえり」「死んだような私たちを生かすことのできるお方」「希望を与える救い主」として、その存在自体に対して信頼を置くことなのです。この「イエス様こそ、すべての希望といのち」として信頼するということが大事なことなのです。
  使徒の働きに出てくるペテロの言葉に、「世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(4:12)と出てきます。私たちが頼るべき存在としては、最終的にはイエス様だけしかありません。
 イエス様ご自身に心を向け、「いのちをもたらすことのできるお方」に全幅の信頼を寄せるのです。それが私たちに求められている信仰の姿勢です。自分に何ができるのか、自分はどういう役にたてるのか、そういうことを考える前に、心からイエスキリストを信頼し、そのお方を心から礼拝することが大事なことなのです。
 毎週礼拝があるのは、まさに、そのことのためでもあるのです。イエス様が教えてくださったあのこと、このことをしっかり心にとどめ、信じ、信頼を置く。ここに希望に生きる
生き方があるのです。
 イエス様の教えておられる事々、約束、希望、十字架の意味、復活の意味、奇跡の意味を学び、それを信じながら生きること、それは、私たちを生かす土台の石なのです。