ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2004年8月]を短くまとめてのせています。

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2004年 8月22(日) 『神と人とに仕える人生』 ヨハネの福音書13章1節-20節

  まもなくイエス様が十字架に掛けられる日が近づいているにもかかわらず、弟子たちは自分たちの興味について議論していました(ルカ22:24-26)、「誰が一番偉いのだろうか」と。
  しかし、イエス様はそういう弟子たちを決して軽蔑せず、恵みで包み、精一杯の愛を注ぎました。そして、あることを実行しました。それは「弟子たちの足を洗う」ということで
した。客人の足を洗うというのは奴隷の仕事でした。その役割をイエス様が実行するということになると弟子たちの中に反発すら起こりました(13:8)。
  しかしイエス様はこの出来事を弟子たちに対する愛の行為として実行しました。極端な言い方をすれば、イエス様は、私たちの足を洗うということのために世に来たのです。私たちの心の汚れを洗うということのために来たのです。それをしっかり受け止めることこそ、イエス様の心、イエス様の愛を受け止めることにつながります。
  そして、イエス様は、足を洗うという出来事をひとつのモデルとして教えておられます。「あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。」(13:14)と。もちろん、足を洗うという行為そのものを真似ればよいということではありません。この姿勢は「愛」をもってなされなければ全く意味がないということです。
  イエス様に足も心も洗っていただいたことを喜び、その愛を心に受け止め、その愛の心で互いに向かうということです。しもべとして私の足を、心を洗い、罪を赦すために十字架にまで向かってくださったその愛をしっかり心に受け止め、感謝と礼拝で応えることが必須です。
  そして、そのイエス様の愛をもって、しもべとして生き、愛されている喜びを沸き立たせながら「神と人とに仕える人生」をイエス様は勧めているのです。

2004年 8月15(日) 『イエス様に信頼する』 ヨハネの福音書12章44節-50節

 イエス様は、大きな声で、「わたしを信じる者は、」(44)といってか張り始めます。また「わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。」(46)と言います。イエス様が私たちに求めておられる基本的な姿勢は「わたしを信じなさい」ということでした。
 そして、まさに、イエス様を信頼できた人たちは、父なる神様を信頼し、父なる神様のうるわしさを見るのだとおっしゃいました。
 イエス様の言葉を聞き、イエス様の行動を見、そして何よりも、私たちにとってはイエス様の十字架の死と復活を教えられ、イエス様を救い主として信頼すること、それが実は大変重要なことなのです。
 キリスト教とはどんな宗教なのかとひと言で言うならば、まさしく、イエス・キリストを信頼するかどうかという一点こそ重要な部分なのです。
 そして、「わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、・・・」(47)とすらイエス様は語りました。イエス様の命令を守り抜くことができず、罪を犯してしまうことがあっても、イエス様は、そんな私たちを救うために来たので、そのこと自体を裁かないとおっしゃいました。もし、イエス様を信じてから失敗したり、罪を犯したりすることがあっても、それによってイエス様は私たちを断罪したり、顔をそむけてしまうことはないと言ってくださっているのです。
 罪に対して甘いのではなく、イエス様ご自身がそのための代価をすべて払ってくださるからこそ、赦すとおっしゃってくださるのです。御子イエス様を十字架につけるほどの愛を示してくださったのは、まさにこの祝福の中に私たちが入れられるためなのです。
 改めて言うまでもないと思わず、何度でも言いますが、信じる者、信頼することができる者にさせていただきましょう。

2004年 8月  8(日) 『身代わりのさばき』 ヨハネの福音書12章27節-43節

 イエス様は御自分の死の近いことを自覚しておられました。イエス様にとっても肉体的な死は大きな問題であったと思いますが、それ以上に問題なのは、何のための死かということ、何が待ち受けているのかということにありました。
 十字架における死、あがないの代価としての死というのは、イエス様にとって、苦しい、厳しいものでした。そもそも、父なる神様から裁きを受けるということの厳粛さを一番よく知っているのは御子イエス様だったのです。しかし、イエス様は、十字架に対して積極的に向かっていきました。それが、「今がこの世のさばきです。」(31節)という言葉が使われて表現されています。イエス様の死は、父なる神様によって「世のすべての裁きを担う、世のすべての人のための身代わりに裁きを受ける」という役目があります。地上からあげられるというのは、十字架に掛けられるということであり、イエス様が十字架につけられることです。その十字架こそ、すべての人の罪を引き受けるものですから、「すべての人がイエス様のもとに引き寄せられるのです。」このことは非常に大切なメッセージです。
 イエス様は、この「十字架による救い」ということを「光を信じる」という表現を使いました。闇は、神様の祝福の全容を隠してしまうものであり、希望ではなく絶望をもたらすものでもあります。私たちの人生が有限であるように、この地上でのすべての出来事には時間の制約があります。有限なのです。光を信じるようにと、神様が計画の中でイエス様をこの地上にお遣わしになりました。私たちは、それが許されている間に、それに対する丁寧な応答をしなければなりません。心を柔らかくして信頼し、「身代わりのさばき」による恵みの中を今週も歩ませていただきましょう。

2004年 8月  1(日) 『イエス様に仕えるなら』 ヨハネの福音書12章9節-26節

  24節の言葉は聖書の中にある言葉の中で最も有名なものの一つかもしれません。この「一粒の麦」は、イエス様がご自分のことを言っており、また、イエス様の役割を見事に語っているもので、特別な意味がそこには存在しています。イエス様は、ご自分のことを一粒の麦に例え、死を語った時、十字架のことが意識されていました。
 私たちが十字架での出来事を自分に対する神様の愛そのものだと信じるなら、イエス様の死によって生み出されたいのちを自分のものとすることができるのです。イエス様の死とイエス様のいのちとに結び付けられているのです。そのような人に対する具体的日常のあり方が教えられます。
 イエス様によって生かされている私たちは、イエス様から何を期待されているかというと、キリストに仕えることです。つまりイエス様の心を大事に考え、そのお方の思い通りに従うことです。では、実際的には何をどうすればいいのでしょうか?一番、単純な言い方をすれば、イエス様と一緒にいることを喜ぶことです。イエス様は私たちの心の中にすでにいてくださいますから、そのことを深く感謝することから始まります。そして、礼拝での「イエス様との一緒の時間を充実させ、聖書の言葉からイエス様の心を教えていただく」ということの充実が非常に重要です。
 ここに私たちが歩むべき道があるのです。キリストの死と復活によって神様と和解させていただき、神様からのいのちを頂いた者として、私たちは、生かされていることを感謝し、イエス様が共にいてくださることに感謝し、イエス様を礼拝し、イエス様が遣わすところに歩むという意識で生きることが望まれているのです。
 今週も私たちがそのように歩めますように。