ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2004年9月]を短くまとめてのせています。

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2004年 9月26(日) 『結実』 ヨハネの福音書15章1節-12節

 このテキストで「実を結ばないもの」(2節)という言葉にぶつかり落ち込むクリスチャンがいます。しかし本来の意味は、できの悪いクリスチャンを切り捨てるという意味ではありません。「わたしにとどま」(5節)るなら実を結ぶと言っているのです。つながってい
るのに、実を結ばないということは不自然で、それはつながっているように見えて実は関係が切れてしまっているのです。
 つながっているように見えて、イエス様に留まらない者とは、すなわち、自分勝手な解釈、イエス様の言葉の本質を無視した存在になってしまっているということなのです。ですから、イエス様は、できの悪い者、弱者を軽蔑なさいません。つながってさえいれば、実は残るのです。
 また「赦さない心」、「非寛容の心」もイエス様に留まらない者です。「主の祈り」でも教えています。これらの心の内側には共通するもの、それは砕かれていない自我であり砕かれるべきプライドです。私たちはそうできるよう、悔い改め、祈ったらよいのです。感情的に赦せない問題も、信仰の問題として適切に対応することが大事なことなのです。
 それでは、キリストに結びついていなければ、決して生み出すことができない「実」とは何でしょう。それは、「罪の赦しの喜び」や「永遠のいのちの希望」そして「愛」といっ
た霊的祝福とよばれるものです。そしてイエス様を喜びながら生きるということです。
私たちはキリストにつながり続け、毎日毎日、留まる必要があります。では、いったい何がどうなればつながっていることになるのでしょう。それは「御言葉に留まること」(7節)と「キリストの愛の中に留まること」(9節)が基本です。謙遜にみことばに留まり、イ
エス様の愛に留まっている中で「実」は静かにそして確実に実ります。私たちの歩みが豊かに実を結ぶものでありますように・・・。

2004年 9月19(日) 『イエス様の約束』 ヨハネの福音書14章12節-31節

 イエス様はご自分が十字架に掛けられ、この地上から居なくなることを知っていながら、弟子たちの今後のことを心に留めておられます。そして、私が一緒にいる、それは聖霊によって明確に分かるのだということなのです。
 しかし、こういう言葉が語られたのは、弟子たちが苦難を味わい、悲しみや寂しさにうちひしがれる日があることをイエス様は知っていたからです。「私は、あなたを捨てて孤児にはしません」とイエス様がおっしゃったことは、弟子たちには、イエス様の危機感がはっきりとは伝わっていませんから、あまり、その言葉の意味は分からなかったかもしれませんが、彼らは、十字架の出来事を通過する中で、この言葉の意味の重さを思い出すのです。誰に何を言われようと、誰にどのように取り扱われようと、イエス様は弟子たちを、そして今日の私達を孤児にはしない、置き去りにしない、置いてきぼりにしないという約束がここになされているのです。本当に心の奥深くからの安心感があります。
 さらに、イエス様は、「平安を残し、・・・わたしの平安を与えます」(27節)とも言われました。イエス様の平安というのは、見せかけのものではなく、勝利者としての平安です。十字架の出来事は一見、負けのように見えますが、すべての悪の力をご自分の死と復活によって滅ぼし、勝利を宣言したのです。
 愛に生き、イエス様の言葉の中に生き、聖霊が与えられ、永遠の臨在感、平和、平安・・・それだけの祝福の中に生かされていると意識することができたら、私たちの歩む姿勢も変わるのではないでしょうか。
 もちろんこれらの約束は、今、イエス様を信じている私たちにとっても同じ重さを持つのです。イエス様は、この約束を保ち、そのまま私たちに対して実行してくださっているのです。

2004年 9月12(日) 『道、真理、いのち』 ヨハネの福音書14章1節-11節

 弟子たちは不安でした。その一人であるトマスは、イエス様の発言を理解できず、イエス様に向かってどの道を行ったらよいのかと尋ねています(5節)。そしてイエス様は言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(6節)
 「私が道」というのは、私たちが神さまとの関係を回復することができる「道」そのものになってくださったということを教えています。このお方がおられなければ、道は閉ざされたままでした。
 「私が真理」というのは、「神さまについてわかる」というより、「神様ご自身を知ることになる」という意味があります。知るというのはその周りの知識を得るということではなくて、その神様を体験する、味わう、関係ができるということになります。このお方がいなければ、私たちには神様のめぐみも真理もまったく理解することも体験することもできませんでした。
 「私がいのち」というのは、イエス様の使命と関係があります。イエス様の使命とは、私たちの罪を赦し、「永遠のいのち」を私たち信じるものにお与えくださることでした。イ
エス様がおられなければ、私たちには死に打ち勝つ希望はありませんでした。そのイエス様のいのちが与えられるからこそ、私たちは礼拝者として生きる希望をもてるのです。
 私たちにとってイエス様とはどういう存在でしょうか。このお方こそ、救い主だと聖書は教えています。このお方こそ、神様への道、神様の真理、神様のいのちそのものであり、このお方を通してでなければ、神様からの最高の祝福といのちは受け取ることができないと聖書は言います。私たちにはイエス様しかいません。いや、イエス様がいてくれるから希望があるんです。イエス様に希望を置き、信頼して、歩んでまいりましょう。

2004年 9月  5(日) 『イエス様の主権』 ヨハネの福音書13章21節-38節

  イエス様は、ユダが裏切ることをご存知でした。自分を裏切ろうとしている心を知っていながら、イエス様は決して、後悔したり、落ち込んだり、自分を責めたりなさいませんでした。うらやましく思うのは、この「落ち着き」です。淡々とユダの人生をユダの手の中
に任せておられます。
  自分の弟子たちの中に、師を裏切って金で売る者もあれば、決して裏切らないと宣言しながらあっという間に3回も否定してしまうペテロのような者も存在しているにもかかわらず、冷静さ、イエス様の持っている平静心は、考えれば考えるほど、私たちの心を圧倒します。
  「そんなこと聞いていない」とか「知らなかった」とかいう事が全くないのです。しかも、何があっても、ちゃんと次に打つべき手を持っています。イエス様は最初からユダを排除しませんでした。またペテロを軽蔑してもいませんでした。ペテロに対しては裏切る前からその先のことを告げ(ルカ22:32)激励しています。
  よく考えてみると、教会という群れには、この弟子たちと似たような要素があるのです。燃えている人もいれば、そうでない人も存在します。しかし燃えていないからだめだとか、がんばっていないからできないんだというところに目が向けられる場所ではないはずです。主イエス様がしっかり歓迎され、そのお方の主権のもとに生きようとしているかどうか、が問題なのです。
  教会の主は、イエス様です。私たちはイエス様の主権のもとに置かれているのです。教会も個人もそのことを常に心に留めながら進む必要があるのです。この絶対的安心感、冷静さ、落ち着きの元であるイエス様の主権に目を留め、信頼して、歩んでまいりましょう。