ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2004年10月]を短くまとめてのせています。

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2004年10月24(日) 『信仰の勝ち組』 ヨハネの福音書16章25節-33節

 32,33節にはイエス様の示された信仰の模範があります。
 信仰は平安な時には、それほど目立つことはありません。しかし苦難や失敗、孤立、孤独を味わう時、その人の信仰の内容がはっきり見えてくるのです。
 弟子たちは、やがて、すさまじい落ち込みを体験します。みんな昔の土地に戻り、もう何も信じられなくなるような出来事に遭遇するのです。しかし、イエス様は、まさにそのどん底の中でこそ、「神が共におられる」ことをあなた方は知るようになり。私が今語っていることの内容がわかるようになるのだ」と語るのです。
 私たちの信仰は、人生のどん底経験の中で、もしかしたら、人生の失敗や敗北経験の中ではじめて「イエス様の十字架の苦しみ」と自分の出来事を結び付けることができ、本物になっていくのかもしれません。
 世の中では最近、「勝ち組」とか「負け組」という言い方がありますが、そういう経験は、負け組のものです。しかし信仰においては、勝ち組の必要条件です。
 求めてられている信仰は「頭の体操」ではありません。観念的な、哲学的な「思想の学習」ではないのです。聖書は苦難の中で喜びをもたらす力となりうる「イエス様への信仰」を提供して下さっているのです。悲しみの中に絶望しない生き方、自分のふがいなさに絶望しない生き方こそ、「イエス様への信仰」が私たちに提供している「勝利」なのです。
 私たちの主は「孤独にも苦難にも打ち勝った勝利者イエス様」なのです。
 勝ち組の信仰は、すべてに成功する信仰ではなく、困難や苦難にも打ち勝った勝利者イエス様への信仰です。
 私たちも、どんな困難の中でも、たとえそれは、家庭の中、教会の中、信仰者同士の苦しみの中でも真の勝利者であるイエス様への信仰をますます強めて歩んでまいりたいと思わされます。

2004年10月17(日) 『私たちの希望』 ヨハネの福音書16章1節-24節

 人間的な考えでは、愛し尊敬する方といつまでも一緒にいられることはすばらしいことです。ですから、イエス様が去っていくことは、弟子たちにとっては、それは当然、悲しみを引き起こされるものとなります。信じていた師が十字架につけられるなどという出来事は心の用意のしようがありませんので弟子たちの衝撃や落胆、悲しみは本当にすさまじいものだったと思います。しかし、イエス様は、去って行くことが、「あなたがたにとって益、あなた方の為」、と確信していました。
 イエス様は十字架という弟子たちに圧倒的な悲しみと衝撃をもたらすご自身の最期について語ります。しかし、その後に希望があり、喜びにつながる出来事が間違いなくあるのだということを教えてくださっています。死と復活、さらには、昇天と再臨、ここには希望があります。神様の計画の中には、私たちを孤独に置き去りにし続けることは絶対にありません。
 一時期、私たちは苦難に出会い、一時期、孤立や孤独を味わうことがあります。しかし、最終的には、誰も奪い去ることのできない「喜び」の関係の中に私たちを導いてくださいます。
 今の悩み、孤独は「今しばらくの間」の問題なのだと心から信じたいと思います。そしてその時期に私たちを支え、私たちを教え、礼拝しながら生きていけるようにと聖霊なる神様が与えられているのです。私たちが見捨てられることはないのです。
 私たちの持つ希望は、変わらない、なくならない、増すことはあっても減ることのない、誰も奪い去ることのできない「喜び」であり絶対的な平安であり、間違いのない希望であることを、今一度心に刻み、それを持ち続けることが出来るなら幸いです。

2004年10月10(日) 『憎しみを超えて証しする力』 ヨハネの福音書15章18節-27節

 イエス様は神の国の教えを、愛する弟子たちに託して苦難の十字架に上ろうとしています。しかし弟子たちはたびたびそのことを予告されていたにもかかわらずまだはっきりと自覚していませんでした。そこで、イエス様は弟子たちも迫害に会わなければならないことを告げてその覚悟を促されました。
 「世は憎む」とありますが、この「世」とはもちろんこの世界のこと、あるいはこの世界の人々のことです。その背後に明らかに悪の存在、サタンの支配を意味しています。        その悪の支配する世からキリストによって選び出されて神様の支配のもとに置かれ、神の国の国籍が与えられたのがクリスチャンですから、世がイエス様同様クリスチャンを憎むのです。クリスチャンの生涯は敵地を通過する旅人のようだといえるのかもしれません。
 そのような中で私たちは、「キリストはどういうお方であるのか」を伝え、証ししなければならないのです。私たちに、イエス様は「憎しみを超えてなお証しすること」を求めておられます。そして、その証しを可能にするのは聖霊なる神様の力です。
 聖霊なる神様は私たちが迫害を耐え忍び、その迫害の中にも主を証しを助け、証をする力を与えるために来られました。使徒たちを初め、弟子たちは聖霊なる神様に助けられて証しし続けました。
 私たちにはすでにこの世の「憎しみを超えて証しする力」が聖霊なる神様から与えられそのように導かれていると信じ、委ねて、恐れず歩み続けたいと思わされます。
 「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。あなたがたもあかしするのです。」(26,27節)

2004年10月  3(日) 『選んでくださった友』 ヨハネの福音書15章13節-17節

 イエス様は、みことばに留まり、イエス様の愛に留まり、そして互いに愛し合うように私たちに命じておられ、それらを実行する生き方をするなら、「あなたは私の友だ」と言ってくださいます。
 そして、友としてのイエス様は、私たちのためにいのちを捨ててくださいます。イエス様は、十字架で死ぬことによって、あるいは、神様から私達の身代わりに裁きを受けてくださることにより、私たちを「義」としてくださいました。神様の前に、あたかも「罪が存在しなったかのように」罪を赦し、心を聖めてくださいます。それが「あがない」なので
す。そしてさらには、イエス様は神様の私たちの罪に対する怒りを「なだめ」の役割を担ってくださったのです。
 神様の怒りが除去され、私たちに対して心からの喜びや祝福をもたらしてくださいます。
 聖書に書かれている福音というのは、イエス様の福音ですが、その内容は「和解の福音」とよばれるものです。
 イエス様は、私たちの友として、最善を考えていてくださいます。いつでも、どこでも、どのような場面でも、です。十字架によって神様からの赦しと神様との和解が成立したのだ、という福音こそ、イエス様がいのちを掛けて私たちに伝えておられる福音なのです。
 また頑張ってイエス様の友達としての水準を確保しようとしたり、イエス様にいつも喜んでいただくためには、神様の愛に応えて必死で生きなければだめだと考えるのは間違っています。
 すでに和解は成立し神様は私たちの存在をそのままで喜んでくださっているからです。救いはイエス様の十字架によって完成されているのです。私たちは信仰によってそれを信頼し、感謝とともに受け取れば良いのです。謙遜に生きることが大事です。イエス様は、私たちを選んでくださった、私の友として信じて感謝して委ねて、歩んでまいりましょう。