ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2004年11]を短くまとめてのせています。

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2004年11月 28(日) 『神様の約束』 イザヤ書9章1節-7節

 今週からは、クリスマスについてご一緒に分かち合っていきたいと思います。
 私たちも互いに約束をしますが、それはお互いの合意でそれぞれが納得した上で、公平な役割を果たすことでなされるものであります。ところが、この箇所で神様がなさった約束は、神様の側にはそれをする必要は一つもなかったのに、一方的になして下さった、いわば神様にとってずいぶん不公平なものなのです。 同じイザヤの43章19〜25節などを見ると、神様は「あなたがたは神様の栄光を表さない。しかしわたしはあなたに恵みを施そう」と言って下さるのです。でも私たちはこのような約束でなければ救われないと言うことなのです。
 それでは、神様の約束はどのような約束なのでしょうか。エレミヤ29:11には「それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」と書かれています。私たちは、主の約束を受けたものとしてその約束を「待ち望んでいく」者となりましょう。そして、それはどんな闇のただ中にも神様を心に迎え入れ、約束を待ち望むということです。私たちはこの現在に生きるものとして、この暗い世にあっても神様をお迎えする、神様にお任せするという姿勢に歩みましょう。
 神様が私たちに与えて下さるのは、「私たちが何かしたから、何か努力したから」与えられるものではありません。それは「恵み」として無償で与えて下さるものなのです。神様ご自身は「あなたがたを恵もうとして、待っているのだ」と言っています。ですから、クリスマスを迎えるに当たり、私たちは一つ一つ、どんな小さな事でも、神様に願い、そして主を待ち望む者になっていこうではありませんか。

2004年11月 21(日) 『やり直し』 ヨハネの福音書18章1節-27節

 イエス様は十字架に向かいます。そこには、父なる神様からの使命に生きるものとしての気迫が見て取れます。私達の救い主は決して、パニックに陥ることなく、常に約束を守り、常に救いの道を実現してくださいます。そこに大きな安心があります。私達の救い主は、気まぐれな救い主ではありませんから信頼してよいのです。むしろ、信頼するに足る唯一の救い主であるといえます。
 一方、ペテロは口で言うこととは反対に、弟子たちのリーダーとしては人間的な評価では失格でした。人間的な限界を感じたに違いありません。そして、その人間としての弱さや不完全性は、私達人間の中には誰の中にもあるのです。
 しかし、イエス様はそんなペテロを軽蔑せずに、その失敗の後に弟子達を力づけてあげるようにと励ましておられます。イエス様が私達の限界を知っていてくださり、それを軽蔑することもなく、受け止めてくださるのだというところに希望があるのです。私達が、口ほどにもなく、失敗してしまったとしても、やり直しの道があるのです。そして兄弟姉妹を励まし、今度は相手を支える生き方を教えておられます。
 社会の中には「やり直し」が許されない空気があります。しかし、イエス様は「やり直し
」を許してくださるのです。そこに私達の安心と希望があるのです。
 預言者イザヤが救い主、メシヤについて紹介し預言した言葉です。「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。」(イ
ザヤ42:3)
 私たちの信仰は失敗しないようにするというよりも、失敗しても、絶望しない信仰なのです。ですから信仰を持ってイエス様に何度でも悔い改め、赦しの道、やり直しの道をあゆみ続けていけるならば幸いです。

2004年11月 14(日) 『私のための祈り』 ヨハネの福音書17章20節-26節

 イエス様によって祈られている弟子たちとは、人間的にどういう人たちだったのでしょうか。決して賢いわけではなく、社会的な地位があるわけでもなく、人間的に能力が豊富だったわけではなく、イエス様に誠実に従いつづけたわけでもありませんでした。
 イエス様の弟子たちの多くは、無学の普通の人であり、漁師だったり、収税人だったり特に際立ってすぐれた評価を得ていた人はひとりもいませんでした。
 彼らは誰が一番偉いのかということばかり興味があり、イエス様に従うことで、きっと、自分達も社会的に偉くなれるのかもしれないと期待していた、文字通り人間くさい人たちでした。宗教人でもありませんでした。しかし、イエス様にとっては、この地上において、掛け替えのない友達であり、福音を世界に広げる奉仕者としてイエス様自らが選んだ大切な人たちでした。
 その人たちに一番必要なものをイエス様は祈ったのです。そういう弟子たちが今後、何をどうしていけばよいのかを心にかけて祈ったのです。「彼らが、神様の愛の中にしっかり迎え入れられ、孤独や孤立から守られ続けるように。」また、「いつでもイエス様と一緒にいることを信じることができるように。」そして、最終的には文字通り、「イエス様のいる所にある栄冠を目指して希望に生きる人生がおくれますように。」という祈りでした。
 そして、その祈りは、皆さんのため、私たちのため、あなたのため、私のためでもありました。
 イエス様は、私たちが何か出来ても、出来なくても、私たちを見捨てません。私たちの存在をそのまま受け入れ、父なる神様とのきずなの中に招いてくださいます。そのことを覚えて歩み続けましょう。

2004年11月  7(日) 『祭司の祈り』 ヨハネの福音書17章1節-20節

 ヨハネ17章はイエス様の祈りが書かれています。この祈りは「大祭司の祈り」とも言われています。イエス様は何を祈られ、なぜ祈られたのでしょう。
 11節に「御名の中に、彼らを保ってください。」とあります。神様の御名は「あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、咎とそむきと罪を赦す」(出34:7)という意味があります。その中に弟子たち、また私たちを保ってくださるようにと祈られました。
 また17節に「真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。」とあります。み言葉を受け取り続け、イエス様の言葉思い巡らし、聖霊と聖書の言葉によって教えられ続るなら、神様の知恵を得、神様の心を知り、神様からの平和を受け取ることができるのです。
 そして、15節で「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。」と祈っておられます。弟子たちに対して、世にあっては悩みがあるといわれたイエス様は、確実に、悪い者たちから守られるよう祈ってくださいました。
 私たちは、自分の勝手な判断だけでは、悪い者なのか、良い者なのか判断できないことがあります。聖霊によって、御言葉によって、私たちはそういう洞察力を得るのです。
 一つとなるためです。神様への愛の一致です。また、イエス様は、弟子たちの心が喜びで満たされるよう祈りました。そして、これから御言葉を聞いてイエス様を信じる者たちのために祈ったのです。
 これらのイエス様の大祭司の祈りは弟子たちのための祈りであるとともに私たちの祈りでもあるのです。私たちのために祈ってくださっているイエス様への感謝しつつ歩んでまいりたいと思わされます。