ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2004年12]を短くまとめてのせています。

元に戻る


2004年12月 26(日) 『闇の中に輝く光』 ヨハネ18章19節-40節

 イエス様の裁判の様子が書かれています。
 そこに登場するのは以下のような人々です。真理を語り、真理を教える役割を担っていながら、自分たちの組織、伝統を守るためであれば、誰であってもその存在を許さず、熱狂的、しかし極端に偏狭(ヘンキョウ)な者達。その人たちからの軽蔑を恐れ、非常に心を動かされやすい、扇動されやすい、無知で感情的な群衆。宗教的な問題について裁判を行う権限を持ちながら、権力の上にあぐらをかき、きわめて不誠実な裁判官。個人的な好奇心を公の場に持ち込み、実際の裁判は、きわめて、怠惰な、形式のみのもので、興味は「政治的」なことにのみしかなく人の話を聞こうとせず、群衆の声にはめっぽう弱い臆病な裁判官。
 聖書の世界と私たちの現実は、イデオロギーや政治体系、民族や時代が違うはずです。しかしその実情は現代と酷似していて今の世界の状況がそのまま書かれているようにすら思います。そう思うと現代に生きる私たちはその社会状況や、身の回りで起こる様々なことを非常に憂いてしまいます。しかし考えてみてください。18章が今の世界の状況だということは、反対に言えば、イエス様は決して遠くにいるわけではないということなのです。真理は決して遠くにあるわけではありません。18章の中で、イエス様は、暗闇の力に取り囲まれています。しかしイエス様は光を放っています。ヨハネ1:5には「光はやみの中に輝いている。」とかいてあります。そのような私たちの中でひときわ輝くのがイエス様です。だから私たちは礼拝するのです。そして礼拝し続ける必要があるのです。
 今年一年が守られ、礼拝し続けることが出来たことを感謝いたしましょう。そのイエス様から頂いた恵みを一つ一つ忘れずに感謝し、ますますイエス様に従ってまいりましょう。

2004年12月 19(日) 『本当のプレゼント』 ヨハネ3章16節

 クリスマスおめでとうございます。クリスマスはプレゼントの習慣がありますが、そのクリスマスプレゼントにかけて、今日は二つの視点から「本当のプレゼント」ということを考えたいと思います。
 第一の視点は、私たちの受け取るプレゼントです。今日の聖書の箇所では「世を愛された」とあります。「世」とは誰のことでしょうか。それはまに、「あなた」の事であります
。神様は「あなた」を愛されたのです。
 私たちは意識していようと無意識であろうと、むなしさをもっていて、それを解決しようとします。しかし、どこを探り歩いても、いつまでもこれでよしというところにたどり着けないのではないでしょうか。
 しかし、神様が与えて下さったプレゼント、それがすべてを解決する道なのです。「キリストによって変えられた」と、多くの人が語っています。人は本当に生まれ変わることができるのです。そして、イエス・キリストはそのような力を私たちに与えるが為に、この地に来て下さったのです。
 第二の視点は、私たちが贈ることが出来るプレゼントです。私たちに神様からの最高のプレゼントが贈られたということをその通りだと思って受け取ることができた方は、実際、価値観や人生が変えられて歩みだすわけですが、どのように変えられるかというと、相手のためを思って歩み、弱い小さい者達に、そしてそれは神様に眼が向いて歩むことが出来るようになるのです。
 クリスマスは祝福のときです。この「本当のプレゼント」を受け取り、って、また、そしてその次には人々を愛し、神様を愛し信頼して、自分がささげられる本当のプレゼントをささげて歩むことをこのクリスマスに覚えたいと思うのです。そのクリスマスは最高のクリスマス、新しいすばらしい人生のスタートとなるのです。

2004年12月 12(日) 『羊飼いと天使』 ルカ2章15節-20節

 アドベントの第3週となりました。今日は共に、「羊飼いと天使」というところから、ご一緒に学ばせていただきたいと思います。 
 「御使い」、「天使」というものの存在を信じておられますか。聖書の中には御使いの存在があちこちで出てきます。私たちはまず、「天使というものがいる」ということを知る
必要があると思います。
 詩篇の91:11や、34:7を見ると御使いというのは、私たちを守るために使わされている、私たちのまわりにいる、ということが分かります。このことを信じることは私たちの信仰生活においても非常に大きな意味があるのではないかと思うのです。
 さて、そのような御使いが羊飼いに現れた、というのが今日の聖書の箇所です。御使いはキリストの誕生を知らせました。ユダヤには律法学者や祭司長など、いわゆる宗教界のお偉いさんがたくさんいました。しかし、そのような人ではなく、もしかすると日曜の礼拝にも出られなかったかもしれない羊飼いのところにまずその知らせが届いたのです。何という驚くべき事ではないでしょうか。権力のある者ではなく、本当に弱い、無学のまずしい羊飼い達に、「全世界への救い」が語られたのです。
 また、御使いが羊飼いに現れたのは、彼らの素直に従う信仰があったからではないかと思います。彼らは天使を見て驚いたけれども、それにとどめず、とにかく見に行った、この素直な信仰です。
 私たちは、ここから学びたいと思います。まず「御使いが確かにおられる」ということです。神様は私たちの気づかないところで助けて下さっていることを共に覚えたいですね。
 また、ルカ11:28にも書かれているように、そして、羊飼い達のように、天使の知らせを聞いて素直に行動をする信仰です。本気になって神のみことばに従う、そのところに神様は働いて下さるということを覚えて歩んでまいりましょう。

2004年12月  5(日) 『マリヤとヨセフ』 マタイ1章17節-25節、ルカ1章26節-38節

 アドベント第2週に入りました。ご一緒に、クリスマスには欠かせない人物、マリヤとヨセフの信仰について学んでいきたいと思います。
 マリヤとヨセフは婚約中の身でした。マリヤが天使から神様によって子供が宿ったと告げられたと、ヨセフに話したとは記されていません。もちろんマリヤがそう言ったところで、ヨセフはおかしな事があったと考えるのではないでしょうか。ヨセフはこのことでどんなに思い悩んだことでしょうか。
 ユダヤの法律では、この場合、石打ちの刑に処することが定められていました。ですからヨセフはつらいながらも彼女を生かす唯一の道である、離縁という道を選択しようとしていました。しかしまさにそのとき夢の中で御使いが彼に現れて、マリヤの胎に宿るのが聖霊によるのだと告げました。そしてヨセフがしっかりとその御告げを受け止めたことが記されています。彼は大変な葛藤の中で、「でも、これは神様が示して下さったことだ」と信じたのです。
 ルカを見てみますと、マリヤがここで語った「どうぞあなたのおことば通りこの身になりますように」というのは簡単に言える言葉ではない、ということを私たちは覚えたいのです。それはもしかしたら、自分の命が奪われるかもしれない、石打ちの刑を受けなければならなくなるかもしれない、そういうある意味命懸けの言葉だったのです。つまりマリヤは自分の身を捧げる「献身」をする事が出来たのだといえるのです。
 このクリスマスの時期にこそ、マリヤとヨセフの信仰に目を留めたいと思います。クリスマスの最初から、イエス様が誕生されるそのときの出来事の中に神様に従う決死の覚悟があったと言うことを見て取り、見習いつつ、自発的に、喜んで神様に従う思いをますます強められたら幸いです。