ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2005年1]を短くまとめてのせています。

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2005年 1月30(日) 『聖霊を受ける』 ヨハネ20章1節-23節

 1〜10節までの部分でイエスの死体がなくなっているのを弟子達が発見する場面が描かれています。最初に発見したのは弟子達ではなくマグダラのマリアでした。
 次の場面は11〜18節です。先程の墓を見つける場面でもそうでしたが、この場面でも女性のマリアがイエス様と最初に出会われました。マリアは「多くを赦された者の方が多く愛する」と言う言葉の通りの人物でありました。聖書には女性を男性よりも軽視しているように見えるところもありますが、でも聖書は、そして神様は、神様を愛するということを重要視し、神様を軽視するものを軽視するということにもなるのではないでしょうか。またイエス様に会いたいと願っていたマリアの求めに応えて下さったからとも読めるのです。イエス様の復活の最初の証人として主が選ばれたのです。
 そしてその彼女の言葉を聞いた弟子達の姿が19節以下に語られております。彼らは19節にあるように、ユダヤ人からの追求を恐れて閉じ篭っておりました。そこに復活のイエス様の方から来て下さるのです。そしてご自身が確かに復活された事を弟子達に示され、閉じ篭っている弟子達を再度、送り出す為に言葉をかけました。それが22節以下の言葉です。
 この出来事を皆さんご自身がどう受けますか。イエス様が言われたように「聖霊を受けなさい」とのごとくに聖霊を、そしてイエス様ご自身を受け入れるかということです。確かに人間の理解ではありえない事です。しかし、ここでマリアがそうであったように、復活のイエス様に出会いたいと真剣に求めれば、きっと主に出会い、共にて下さるのです。今日、改めて私たちに聖書を通して主が問いかけています。是非この問いかけを聞き流さず、繰り返し自分に問い直し、そしてまたここから歩み出しましょう。

2005年 1月23(日) 『イエス様への信仰』 ヨハネ19章38節-42節

 今日の箇所には二人の社会的に影響力のあった人たちの信仰が書かれています。
 アリマタヤのヨセフは有力な議員であり、金持ちで、神の国を強く待ち望み、イエス様の弟子になっていましたが、人を恐れて今までその信仰を隠していた人です。しかし、イエス様の十字架の出来事を目撃し、おそらく、心に深く感動を覚え、イエス様の遺体の身元引受人をかってでたのです。犯罪者の遺体を引き取り、自分の持っていた新しい墓に埋葬するというのは、その人が自分にとってはとても大事な存在であるということを世に示すことにもなります。つまり、ヨセフはこの埋葬に関する経緯を通して、自分にとってイエス様は「大事な特別な存在」で、「救い主であり友」であるということを証ししているのです。
 ニコデモもアリマタヤのヨセフと同様議員でした。ニコデモはイエス様と出会ってからイエス様の教えとイエス様ご自身の存在に心を動かされ、信仰を持つように変えられているのです(ヨハネ7:50)。そして、十字架を目の当たりにし、葬りに際して、「没薬」などを持って来たのです。没薬は、エジプトなどでは特にミイラつくりの時に使用したといわれていて、これは死臭を消すものであり、また、最大の敬意を表するためのものでもありました。また、その分量も金額も一人の人の埋葬のためとしては尋常な量ではありません。
 これは、ニコデモがイエス様を「王」として扱ったのです。
 彼らは恥も恐れもなく、死んでしまったイエス様に対して信仰を表したのです。私たちはヨセフの信仰に目を留めましょう。そして、完全ではない信仰ですが、学べるところを学びましょう。ニコデモに目を留めましょう。「イエス様は私の救い主、私の大切な存在、親しい友、私たちの王」ですと神様の前で告白して、そのように歩んでまいりましょう。

2005年 1月16(日) 『イエス様の十字架の死』 ヨハネ19章17節-37節

 十字架の上で「私は渇く」との言葉を発せられました。これは、のどが渇いたということではなく、魂の渇きであり、神様から見捨てられ、裁かれることによって引き起こされる苦しみの渇きでした。いのちの水であるイエス様、人の心を潤すことができるイエス様が、人の罪を担い、父なる神様に打たれ、苦しみました。それを「渇き」という表現で言い表しています。魂がはりさける痛み、神様に捨てられ裁かれる恐怖心、いのちが絶え絶えになっている状況を「渇く」と言っているのです。
 しかし、イエス様の叫びは「渇く」というものだけでは終わりませんでした。イエス様の最後の言葉は「完了した」でした。これは、自らの生涯の最後を喜びと勝利の中で迎えている事を読む事が出来ます。今まで神の子として歩まれたイエス様は、生涯孤独でありました。共にいた弟子達でさえ、イエスの事を真の意味で理解する事が出来なかったのです。ただ神様との霊的な交わりのみがイエス様の孤独な心を支えていました。そして十字架で死ぬ事によって、イエス様にようやく平安が訪れたのです。最後には自分の全存在を父なる神様に委ねられたのです。
 イエス様は、その苦しみの中で、神様がイエス様の犠牲を受け入れ、イエス様の痛みをうなずきイエス様を通して「罪の赦し」と「神様との和解」を与えてくださることを確信していたのです。この苦難は絶望に終わるものではないということを知っていたのです。
 まさにイエス様の死は私たちに希望を与えてくださる出来事なのです。そして、その希望がより確かに感じられる出来事が「復活」なのです。この希望を我々に届ける為に十字架にかかってくださったイエス様だけが、我々の救い主キリストであると、改めて信じる信仰と告白をいただきたいと願っております。祈り求めつつ、今週を共に歩んでまいりましょう。

2005年 1月 9(日) 『私たちの王』 ヨハネ19章1節-16節

 私たちの中にある罪深さは、私たちが感じているものよりもずっと根深く、そして恐ろしいものだと思います。
 イエスキリストが十字架にかけられる過程を見ていくとどう考えても、人間の罪深さの深刻さを感じないわけにはまいりません。総督ピラトはどう考えてもイエス様には罪がないということを知っていましたがイエス様に対する同情や裁きに対する正義感からではなく、状況を丸く治めようとしてのことでした。そして、群集に向かって説得をするのですが、逆に言いくるめられることになります(19:12)。最終的に祭司長たちの訴えに押し切られる様にイエスを十字架に架ける事を承諾していきます。
 15節以下のところに、最後に祭司長たちが叫んだ言葉で「カイザル(皇帝)のほかには、私たちに王はありません。」とあります。しかし本当は、ユダヤ人にとっての王とは「私はある」と語られる神様だけなのです。つまり、彼らがここで語った言葉は言いかえるならば、「我々は神よりも皇帝に従います」と語ったのです。この十字架の出来事において、祭司長たちは神様に従うのではなく、ローマ帝国の法、即ち皇帝に従うというのです。
 神に従うと言いながら、この世のものの支配を求め、神の律法を説きながら、この世の法により頼んだのです。これが罪なのです。
 皆さんにとって「王」とは誰ですか。「王」の役目の一つは民を守ることです。皆さんを護ってくださるものは誰ですか。政府や法律は、完全に皆さんを護ることが出来るでしょうか。
 聖書は「あなたを愛し、護り、あなたの為に命を棄てるのは、この聖書の語るイエス・キリストだけ」であると語ります。このイエスを自らの救い主と信じ、イエスに従い、イエスの十字架によってもたらされた罪の赦しに与り、信仰と聖霊と悔改めを祈り求めて歩みましょう。

2005年 1月 2(日) 『神の奥義の忠実な管理者』 Tコリント3章18節-4章5節

 新年、最初に御一緒にお読みしたい聖書の箇所は、Tコリント4:1、2とその前後です。この箇所は連合の新年度の目標聖句でもあります。
 ここからあるべき教会の姿について学んでみたいと思います。
 教会員は指導者を含め神のしもべであり、神の救いの計画の管理者であるということです。
 「管理人」という言葉の意味は「家にあって仕事を分ける人」というものです。もう少し解りやすく言いますと「執事」「steward」と言うような立場の人間です。つまり、家の所有者から鍵や様々な権限を預けられ、所有者に代わってその権限の一部を行使する人ということになります。この管理人は、所有者からあずかった家を適切に治めその様子を説明する責任を持ち、最終的に神に報告する責任を持つ、と言うことになります。
 しかし、この権限については、何も教会指導者だけが持っているのではなく、教会員一人一人がみな持っているのです。ということは、神から委ねられた資質や時間を教会員すべてが最大限活用して、神の期待に答え、良いかたちで最終的な報告ができるようになることが求められているのです。「執事」としての立場を理解しましょう。
 そして、良い管理者の条件とは忠実さであると説いています。これは、人の評価ではなく神の評価に目を留める忠実さでなくてはなりません。また、失敗をしない忠実さというよりは失敗もあるが常にへりくだって神様の前に悔い改める忠実さであります。こういう一つ一つのことが、神に栄光を帰すことになるのです。
 この一年も、私たちの歩みがこのパウロが言うような、神様に対して忠実で、私たちに与えられている神の奥義である福音という賜物を適切に用い、神様に従う歩みでありたいと切に願わされます。