ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2005年2月]を短くまとめてのせています。

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2005年 2月27(日) 『イエス様との関係』 ヨハネ21章18節-25節

 この最後のエピソードは、先週のイエス様とペテロのやりとりに引き続いて行われております。「本当に愛ゆえに、わたし(イエス様)に従うつもりですか。それなら、わたし(イエス様)の愛でこれらの人々を養いなさい」とイエス様は語りました。この確認は、これから先にあるものが迫害であり、死であるとしても、損を承知で「愛」ゆえに従うということができますかとペテロに問いかけているのです。
 続く箇所は、それを受けてのペテロの質問です。ペテロは恐ろしくなったのか、或いは心細くなったのか、他の弟子についてもイエス様に尋ねるのです。
 しかし、それに対するイエス様の答えは、「あなたには関係がない」というシモンの予想をおそらくは反しての冷たいものでしたが、実はこのペテロの質問こそ、あの十戒の最後、第十戒で戒められている「他人のものを欲しが」つまり「与えられたもので満足し感謝しなさい」ということと関わりがあるのです。そして、イエス様は自分と神様との関係をしっかり見つめ、大切にしなさいと語るのです。
 イエス様はペテロに対し、他の弟子とイエス様の関係を気にするのではなく、「あなたはわたしに従うのか」と問うて下さっているのです。それは、聖書の語る神様は人との関わりを、「神様と人間」として持つのではなく、「私とあなた」という個と個の交わりの中
で関わってくださる方であるという事もあるのです。
 そのイエス様のペテロへの言葉は、聖書を通してわたしたち一人一人にも問い掛けてくださっている言葉です。「あなたはどう生きるのか。私に従ってきなさい。」と招いてくださるのです。このイエス様からの問いかけを大切に、自分に問い直し、或いは祈り求める日々を歩み続けてまいりましょう。

2005年 2月20(日) 『私を愛するか?』 ヨハネ21章15節-17節

 この箇所はイエス様とペテロとの会話によって成り立っています。そしてその会話は一見、無意味に同じことを繰り返しているように感じられるかもしれません。
このペテロはイエス様を裏切った弟子です。しかし、その彼のもとにイエス様は現れてくださり、彼にあわせて下さり、もう一度イエス様を愛し、従うと告白するチャンスを与え
て下さるのです。
これが聖書の語るキリスト、つまり救い主の救いであり、決して手放す事のない神様の愛です。私たち繰り返し罪を犯すものですが、しかしその私たちが罪を犯すものである事を知っていて下さり、その罪を告白し悔い改める事で、繰り返し赦してくださるのです。その愛なしには立ち直る事が出来ないのです。
私たちは、「キリストを愛する愛」を土台にして、人を愛しているでしょうか?「キリス
トが提供してくださった愛」をしっかり受け取りながら、その愛で神様を愛し、人を愛し
ているでしょうか?それとも、結局、自分の得になることだけを選びながら、限定的なイ
エス様とのお付き合いをしているのでしょうか?
しかしこのことは、私たちの努力ではなく、イエス様に触れていただく必要があります。
ペテロも3度の質問でイエス様に触れていただき、赦され、励まされ、送り出されました。
私たちも、この愛を受けましょう。キリストとともに生きながら、キリストに従い、キリ
ストを愛し、その愛のみを生活の土台として行動する事、これらが福音を信じて生きる者に求められている姿勢でもあるのです。「私を愛するか?」と尋ねてくださるイエス様に、日々繰り返し「あなたを愛します」と応えながら今週も歩みましょう。そして失敗や心
の傷に触れてくださるイエス様に赦され、励まされ、家庭や職場やそれぞれの遣わされている場所に送り出されてまいりましょう。

2005年 2月13(日) 『復活の主と』 ヨハネ21章1節-14節

 二つのシーンに注目してみたいと思います。一つ目は漁のシーンで、二つ目は食事のシーンです。
 最初に出てくる場面はテベリア湖(ガリラヤ湖)です。漁師としての仕事を復活させた弟子たちでしたが、何も獲れませんでした。その弟子たちの前にイエス様が現れ、収穫をもたらすという出来事は重要な意味があるのです。この出来事、聖書の別の箇所に似たようなところが出てきませんでしたか。
 この漁の出来事は、ヨハネ福音書の中では、初めての奇蹟物語ですが、他の三つの福音書ではペテロたちがイエス様に従うようになったきっかけの物語として描かれています(ルカ5:5、マタイ4:18、マルコ1:16)。集うメンバーにこそ違いがあるものの、場所も出来事もほとんど同じに描かれています。
 さて、もう一つのシーンは食事です。自然の恵みではなく、イエス様がなさった驚くべき153匹の魚の恵みは、次の食事のシーンへ導かれます。そこには、葡萄の杯こそないものの、あの主の晩餐、聖餐式のシーンを彷彿とさせる場面として描かれていると言えます。収穫はイエス様の指示の中にあり、イエス様はご自分との食事に招いてくださっています。
 このように見るときに、このイエス様との再会の出来事は、イエス様と弟子達が出合ってから別れるまで、弟子たちがイエス様と一緒に歩んで日々が凝縮されている様に読む事が出来るのです。
 弟子達は、イエス様に従うと決意した思いを思い出させるイエス様の導きの中でイエス様と再会し、イエス様の復活を信じました。わたしたちも、復活の主イエス様に、共に歩んでいただくことを願い信じて歩む幸い、「信じるものの幸い」を受けましょう。

2005年 2月 6(日) 『見ずに信じる』 ヨハネ20章19節-31節

 イエス様のからだが墓から消えてなくなったことは、弟子たちを不安にさせました。信仰を持ってイエス様の復活を喜ぶ日のはずなのに、夕方になっても、まだ困惑と恐れと不信仰の中にいたのです。しかし、イエス様は、部屋に閉じこもってうなだれていた弟子たちに、「平安があなたがたにあるように。」と励まし弟子たちを喜びへと導いてくださったのです。同じように、イエス様は、今も、失望や落胆、恐れや不信仰の中に閉じこもっている人々の心の中に入ってきてくださいます。
 さて、そのイエス様が弟子たちに現われ栄光と平安のひと時となった日曜日の夕方ですが、トマスはその場に居合わせませんでした。この出来事からトマスという名は「疑い」とともにイメージされます。しかし、私たちと一番感情的に、感覚的に一番近いのはトマスだろうと思います。他の弟子たちにしたってイエス様を見ないで信じたのではなく、「見て信じた」のです。トマスは「疑い深い人」であったかもしれませんが、特別不信仰であったわけではありませんでした。
 そしてイエス様は、八日の後、以前と同じ状況で、弟子たちに現われてくださいましたが、それはトマスのためでした。そしてトマスのリクエストに答えてくださっているのです
。イエス様は「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と、彼を疑いから信仰へと導いてくださいました。イエス様は求める者に答えをくださいます。真剣に求めることが大切なのです。
 トマスは「見ないで信じる」特権を逃しましたが、私たちにはそれが与えられています。
 私たちはイエス様の復活を見てはいませんが、聖書によってそれを知り信じているのです。イエス様は、私たちにこの幸いを与えようと、今も「信じる者になりなさい。」と、私
たちを招いていてくださいます。イエス様の招きに答える私たちであり続けましょう。