ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2005年3月]を短くまとめてのせています。

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2005年 3月27(日) 『勝利の復活』 使徒の働き2章22節-33節

 イースターおめでとうございます。
イエス様の働きは「奇跡、不思議なわざ、しるし」と呼ばれる出来事で満ち御自身がメシヤであることを証しするわざとして行われました。すべての権威をもっておられるお方でしたから、人々はそれらのことを目の当たりにしてイエス様を信頼すべきだったのです。
ところが、すばらしい神様のみわざが表明されたにもかかわらず、そのお方を十字架に追いやったのです。そしてそれは、人間の罪の裁きをすべてイエス様が十字架に担ってくださったという意味を持っていたのです。イエス様は、間違いなく十字架で罪ある者としてその「いのち」が取られ、死なれたのです。
しかし、主は「死」の支配下に置かれ続けるお方ではないとペテロは言います。もし、死
んだままだとしたら、十字架の身代わりの死は本当に有効だったのだろうかと考えざるをえません。ですからよみがえってくださったのです。
イエス様は死に打ち勝つ体をもってよみがえりました。もはや死はイエス様に対して何の力も持たないのです。それは「栄光のからだ」と呼ばれているからだであり、ただ、肉体的に息を吹き返したのではなく死に打ち勝ってよみがえられたのです。
そしてその体は、私たちがやがていただく「体」なのです。その栄光のからだは、罪に負けることも、死に追いやられることもない体なのです。ここに、私たちの希望があります。
イースターは死に打ち勝ったイエス様はすごいという喜びだけではありません。信じている私たちにも栄光のからだをいただけるという希望が届いた、喜びの日でもあるのです。
永遠の命の希望を持ち続けて歩んでまいりましょう。

2005年 3月20(日) 『ここに愛がある』 イザヤ53章1節-12節

 神様が私たちに救い主をお遣わしになりましたが、その救い主は、私たちの想像を絶するような形で私たちの罪や汚れ、神様への反抗を負ってくださったのです。想像を絶するような形とは、人々の憎悪を一身に受け、人々に軽蔑され馬鹿にされ、人々から捨て去られるという出来事を通してです。
イエス様の十字架の苦しみはわたしたちの高慢、邪悪、神様嫌いのゆえで、十字架は、イエス様の上に集約された全人類の全部の悪と罪が神様によって断罪される場、有罪として裁かれる場でもありました。私たちの身代わりとしてイエス様は、罪あるものとなり、自らは神様に責め立てられる必要はまったくないのに、自らは罪を犯したことがなく、裁かれる必要などまったくないのに、私たちを赦し、神様との平和をもたらすために十字架で神様からの全人類に対する罪の刑罰、神からの呪い、神の怒りを引き受けてくださいました。それは、イエス様が、自分を十字架につけた人間に対して「赦し」を宣言する出来事でした。イエス様は「父よ、彼らをお赦しください。」と祈られ、神様に見捨てられ、裁かれるという苦しみを耐え抜いてくださいました。その十字架の意味をしっかりと捉えることが出来ているでしょうか。キリストの十字架の意味と価値を再発見すること、それが今の私たちに求められていることでもあるのです。
イエス様は、苦難の道を通過し、よみがえられることで、十字架の恵みを完成させてくださいました。そこに愛と救いがあるのです。
「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてください
ました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。
ここに愛があるのです。」Tヨハネ4:9-10

2005年 3月13(日) 『パウロの第一としていること』 ローマ1章8節-13節

 8節をご覧下さい。私たちは、パウロの感謝から信仰を見ることができます。パウロはローマの教会の信仰を聞いた時に、すぐに神に感謝をささげています。常に感謝し、繰り返し感謝しているのです。パウロは感謝の機会に対してとても敏感なのです。
イエス様と共にいた時の12弟子たちや旧約聖書に出てくるイスラエルの人々は小さな問題であっても、いつもつぶやくばかりでした。パウロは立て続けに大変な試練に会っていました。しかし、パウロの信仰は感謝をささげる信仰でした。
わたしたちも感謝の機会に対してとても敏感になり、神様への感謝を探し、すべてのことについて感謝をささげることをいつも思い出す必要があるのではないでしょうか。
9節以降をご覧下さい。パウロは福音と神の御国が心を支配していて、御国のためにどうあるべきかをパウロは考えています。
「ともに励ましを受けたいのです。」とは、自分で力づけてあげようという「上からの態
度」ではなく、神様の御国を第一とした謙遜さと見ることができます。また、「いくらか
の実を得ようと思って」とは一人でも多くの人が救われていくということです。
これほどに御国を中心に考えるのは、パウロが使徒だからではなく、クリスチャンだから、すべてを御国のためにと考えているのです。イエス様が私たちに教えてくださった原則は、「まず神の御国と神の義とを第一に求める」ということでした。私たちも感謝に溢れて、他の人たちに祝福をもたらすことを熱心に願い、神様の栄光のために、御国のために実を結ぶという思いビジョンをしっかり持つことができるように私たちを励ましているのです。その励ましに応えてまいりましょう。
神の国とその義とをまず第一に求めなさい。マタイ6:33

2005年 3月 6(日) 『キリストの福音』 ローマ1章1節-7節

 これからしばらくの間、ローマの人への手紙から御一緒に学んでまいりたいと思います。
 この手紙を書いた時はおよそ50歳台であったと考えられます。そういう意味で、パウロは成長したクリスチャンになっていて、深く御言葉について理解しコリント滞在中に十分時間をかけて、ローマの教会の人々へ福音のことを深く説明して書き送ったのです。
 パウロは最初に自分のことを、「キリスト・イエスのしもべ」と呼んでいます。実はこの
表現は、非常にドキッとさせる書き出しです。誰も奴隷であることを誇ったりはしません。
 しかしわたしたちの間では実のところ「神のしもべ」それ自体が特権です。栄誉に満ちたすばらしい祝福のことばなのです。旧約聖書の中では偉い者が神のしもべと呼ばれています。
 パウロは、キリストによって召されたその権威を明らかにすると同時に、神の御前に本当にへりくだった心をもって、この手紙を私たちのために書いているのです。
 私たちの歩みが「キリストのしもべ」「神のしもべ」としての歩みでありたいと願います
。奴隷としての正しい認識を持って毎日の生活を送れるならば、主イエス・キリストを中
心にして生きていることになります。
 すべてのクリスチャンはパウロと同じようにキリストのしもべ、キリストへの献身の生活を送るように召されているのです。そしてそれは、タイトルにもあげましたが「キリスト
の福音」を持つものの祝福となるのです。この「キリストの福音」、形骸化させてしまっ
たり、慣れたり飽きたりせず、本来の意味であるイエス様への私たちの信仰が生命力に満たされて、ますます霊的に元気に歩み続けることが出来るように願います。