ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2005年4月]を短くまとめてのせています。

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2005年 4月24(日) 『誉れは神から』 ローマ2章17節-29節

 パウロは人々の罪の姿を書いています。今日の箇所では、旧約聖書を良く知っているユダヤ人に向けられて行きます。
 ユダヤ人は、神様が与えてくださった戒めを大切にし、神さまとの約束を守りますという印である割礼を受けていました。しかし彼らは、この律法と割礼を持っていることに安穏とし、内側を点検しようとしないということをパウロは指摘したのです。パウロは、「外
見上のユダヤ人がユダヤ人ではない」と語りました。
 今日の箇所は、単にユダヤ人の問題としてだけ考えるのではなく、私たちクリスチャン一人一人に与えられている信仰の点検作業としてこの箇所を見ていくことを求められ、自身の信仰を確認していくことができたら、と思うのです。
 第一に考えたいことは、律法の上にどっかり座り込んでしまう人たちの姿です。そこにある罪はとなんでしょうか。それは「自分たちは、もはや教えられる必要はない。自分たちは聞く必要はない。」と考え、自分たちが語っていることを自分たちは行っていないというものなのです。
 第二は、割礼へのこだわりです。割礼とは祝福の契約のしるしです。契約書の印鑑みたいなものです。しかし、そのしるし、印鑑がどうであるかが大切なのではなくて契約を守り行うということが大切なのです。
 外見上のユダヤ人がユダヤ人、神の民ではないのと同様に、外見上のクリスチャンがクリスチャンなのではありません。何かクリスチャンらしく装うことが、クリスチャンではないのです。
 本当のクリスチャンは、「らしさ」ではなく、イエス様に告白し、信頼し、聞き従い、この方を心の真中にあがめながら、「あなたに信頼して行きます」と告白する、従順な信仰
の態度です。そしてその評価は人から貰うものではなく、誉れは神様から来ます。皆さんがこのことを確信して、この一週間も過ごしていきましょう。

2005年 4月17(日) 『悔い改めに導く神の慈愛』 ローマ2章1節-16節

 2章は、「他人をさばく人よ」という強い調子で書き出します。「他人をさばく人」とは自分は正しいと思っているということです。
 パウロは続けて、罪人に対して神様のさばきがあることを教えます。罪ある人がそのままであるなら、律法をもつ人は律法によってさばかれ、もたない人は良心によってさばかれるといいます。だから、だれでもこの罪からの救い、滅びからの救いが必要なのです。
 4節でパウロは、「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか」と言っています。すべての人間は罪人です。そうした人間の罪の姿は、そのままであるなら、みんな滅びに至ります。しかし、神様はそれを望んでおられるわけではなく、人間がそうした罪の状態から方向を変えることを願っておられるのです。
 パウロは、こんなにすばらしい慈愛と忍耐と寛容を持っていらっしゃる神様を軽んじているとパウロは叱責しました。どういうことでしょう。「大丈夫、神さまは慈愛と忍耐と寛
容を持っているのだから、今の生活を変える必要なんかない。」と考えてはいないだろうかというのです。
 パウロは、「神の慈愛はあなたを悔い改めに導くのだ」と言います。救いに導くとは悔い改めに導くということなのです。「神のさばきが下らないのは、神様の慈愛、忍耐、寛容の故であり、この忍耐の時、寛容の時に、悔い改めに導かれて行くべきなのだ」と言うのです。
 神様は決して侮られるお方ではありません。自分を正しいと主張し、恵みを軽んじている人に、怒りが積み上げられていると聖書は言います。
 もし私たちがこの神様の前に、どこかで自分勝手な歩みをしているとするならば、方向を変えて、「神様。あなたに信頼して生きて行きます」と告白し、生きて行くことが求められているのです。

2005年 4月10(日) 『罪の姿』 ローマ1章18節-32節

 パウロは「罪」というテーマで、1:18〜3:20を書きました。しかしパウロの本当のテーマ
は、福音です。私たちが自分の罪の深さを知れば知るほど、神様がそこから救って下さることのすばらしさを体験することができるのです。
パウロは、神様のことは「被造物によって知られ、はっきりと認められる」と言います。
私たちがこの大自然、また、私たちの人生を真剣に見たとき、その背後に何かがある、ということを、神様を知らなくても感じてしまうのです。この世界が、私たちが、造られたものであるならば、そこに意味と目的がある、とパウロは言うのです。そのことは、聖書を全く知らなくても、理解することが出来るというのです。
しかし、人々はその神様を拒んできた、とパウロは続けます。今日の聖書箇所には、その人間の罪の姿のリストが出ています。
今日の箇所にある罪のリストは、わたしたちと関係のないものでしょうか。いいえ、神様
の目から見たらこのような罪人の一人に過ぎません。自分の理性を誇ることも、自分の道徳的な生活を誇ることもできません。パウロがローマの人々に書き送った言葉は、ローマの人々だけに語られたものではありません。もちろん、創造主を知らないノンクリスチャンだけに語られたわけでもありません。今日、私たちにも語られているのです。
今週のみことばは、「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。ヤコブ1:15」
とかなり厳しい箇所を選びました。確かに罪の厳しさから目をそむけてはいけません。
しかし、ローマ人への手紙の中心は、福音です。パウロはこう言いました。「福音こそが、救いを得させる神の力」だと。そして、その罪人を罪人扱いせず、愛し、赦し、命をあたえてくださるイエス様の恵みをはっきりと信じ、拠り頼んで歩んでいきましょう。

2005年 4月 3(日) 『福音は神の力』 ローマ1章14節-17節

 パウロは、「福音は、・・・信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力」と言い
ます。福音とはイエス様がもたらした「良き知らせ」でありイエス様ご自身です。イエス
様がすべての束縛から解放してくださり、その人の人生の主権をにぎり、人生を支配して下さるということです。愛に満ちた方が、義に満ちた方が支配してくださるのですから。
パウロは「福音=神の力」と言います。福音の力は、人がかたくなな人生を送っていたとしても、福音が受け入れられる時、岩のような心を砕くことができるのです。この福音の力は、人を生かし、本当の救いを与え、私たちをいっさいの束縛から解放する力なのです。
またその福音の真髄は、受け取るのに全くふさわしくない者に与えられる神様の恵みであるということです。イエス様の十字架と復活を通して、可能になったのです。私たちはどんなに努力しても、自分の内側をきれいにすることはできません。しかし、イエス様が十字架で私たちの罪を全部引き受けて下さったので、神様は私たちを義とされるのです。これは、すごいことです。
それでは、その一方的な恵みである福音の力、救いを受け取るのに、私たちはどうすればいいのでしょうか。「感謝して受け取る」だけでよいのです。これが信仰です。信仰というのは神様への応答です。何か立派なことをすることではありません。私たちの生活は、信仰に始まり信仰に進み、信仰で終わるのです。神様に対する信頼、信仰を持って生きることこそ私たちを本当の意味で生かすのです。この福音を受け取ることが、私たちの人生のスタートです。そして、これは力です。考えられない大きな恵みです。私たちは、福音の中に生かされる仲間となってともに歩んでまいりましょう。