2005年 5月29(日) |
※)国際キリスト教会[日本バプテスト連合]と合同礼拝。
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2005年 5月22(日) |
『信仰と素直さ』 ローマ4章1節-15節
聖書の中にでてくる二人の人物に目を止めたいと思います。
神様はアブラハムに祝福の約束をし「わたしの示す地に行きなさい」と声をかけられたのです。そして、「ああ、もう駄目だ。それに私はもう九十歳だ。子どもは生まれるはずがない。神様は約束されたが、結局その約束は駄目になってしまうのではないか。」と恐れて、疲れ果てていました。そして、自分の弱さを思い知らされたのです。
しかしその時、アブラハムは落ち込みの中から、神様の言葉に励まされ、神様に信頼する思いが与えられ、どん底にあった時に、「神様。信じます」と言ったのです。今日の聖書箇所には、こう書かれています。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」と。
パウロは、アブラハムが単純に、「神様、信じます」といった信仰の告白を引用し、その信仰の告白こそが、主とのまっすぐな関係を築く告白になったということをと記したのです。そして、その単純で素直な信仰の姿こそが、神様が喜ばれる姿なのです。
ダビデは貧しい羊飼いの息子でしたがイスラエルの王様にまで上り詰めた輝かしいサクセス・ストーリーを持っていますが、大変な過ちを犯した人物です。殺人まで犯し、他人の奥さんを横取りしたのです。
しかし、ダビデは、預言者に自分の罪をずばり指摘された後、打ちのめされ、ダビデは沢山の家来が居並ぶ前で、「私は罪をおかした。」といって、神様の前に悔い改めるのです。神様は真実な方です。そのダビデの告白を受け入れて下さいました。神様が本当に受け入れて下さる人間は、罪を犯さない人間ではなく、罪を犯しても神様の前に本当に正直に告白できる者です。
アブラハムの信仰の告白を、そしてダビデの素直な悔い改めを、私たちの生活に適応しながら歩んでいきましょう。 |
2005年 5月15(日) |
<ペンテコステ>『教会の誕生日』 使徒2章1節-13節
今年のペンテコステは5月15日です。またこのペンテコステ、別名聖霊降臨日はイースターとクリスマスと共にキリスト教の三大祭と言っていいでしょう。そしてこの日は教会の誕生日でもあります。
弟子たちに聖霊が下るところから物語は始まります。聖霊を受けた弟子たちは他国の言葉で語り出しました。まさにイエス様が預言したように、地の果てまで、即ちあらゆる国に行く準備が整ったのです。そしてすぐ後に、ペテロが聴衆に向けて宣教を始めるのです(14〜40節)。
そしてこのメッセージを聞いてイエス様をキリストと信じ、バプテスマを受けた者が3000人いたと聖書は記しています。さらにその後、一同はひたすら、使徒たちの教えを守り、信徒の交わりをなし、共にパンを裂き、祈りをしていたとあります(42節)。
これこそ、まさに教会が誕生した瞬間でした。教育、交わり、愛餐、祈り、もちろん使徒たちの教えには礼拝もありましたから、今私たちの教会が大切にしている事が、この時から始まっているわけです。
このペンテコステは教会の誕生日と言うわけです。そしてこの教会の誕生は神様からの聖霊が弟子たちに下ったからであり、イエス様が彼らを送り出したからであります。教会がたてられ、教会が教会になっていく、これは全て聖霊に働きであり、神の導きによるものです。この私達のクロスロードバプテスト教会もそうです。
聖霊は、目には見えませんが、確実に存在しています。そして逆説的ですが、私たちの群れが教会であり続けている限りは、我々にも聖霊が届いているのです。この最初の教会の群れがそうしたように、私たちも使徒達の教えである聖書を読み、交わり、愛し合い、受け入れ合いましょう。そして共に祈って行きましょう。私たちの教会も聖霊の教会として、これからも主に聖霊をいつも求めながら歩んで行きましょう。 |
2005年 5月 8(日) |
『ただ、神の恵みにより』 ローマ3章21節-30節
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」3:23-24には大事なキーワードが隠されています。
1.すべての人は罪人である、という事実です。人は本来、天地を創造された神様をあがめて、歩むように創造されたのに、ずれてしまっているのです。様々な問題の根底に、いつもこの罪が横たわっているのです。このずれは、神様との関係を混乱させ、見失わせ、人との関係を混乱させ、自分の中に、本当の安心や平安を失わせていくのです。そして人は、そのこと気付きながら、それを認めない頑固さがあるのです。
2.その罪がもたらす報酬は死であるという事実です。この罪のもたらす現実を私たちはどれだけ、真剣に考えているでしょう。この罪は報酬をもたらすのです。死という報酬です。死は応答がない世界です。わたしたちが罪あるまま、中心がずれたまま歩むなら、その終着は死、応答のない世界、滅びの世界であると、聖書は教えます。罪の問題の解決なくして、私たち人間は永遠に解決がないのです。大事なのは自分の罪を示されたときどう応答するかということです。
3.その罪人を愛し、恵みをもって救う神様がいてくださるという事実です。私たちがその罪から救われ、永遠の命に生かされたことは、ただ、神様の恵みの故です。徹底的に自分の罪深さを知らされ、その罪の現実がいかにみじめであるかを知ることは、また罪人を救う神様の絶大な豊かな恵みと愛に出会うことになるのです。
私たちに求められているものは、信仰であり信仰とは応答です。イエス様の差し出す恵みを受け取り、そのみことばに勇気を持って生かされていく信仰生活を今週も続けましょう。 |
2005年 5月 1(日) |
『義人はいない。ひとりもいない。』 ローマ3章1節-20節
パウロは、人間の罪そのものについて一章の後半から書いてきました。人は例外なしに罪人なのです。
自分の罪を指摘されると、何かと言い訳と屁理屈をいって、自分の姿を認めようとしない生き方があります。
しかしパウロは、彼らにこう言いました。「神様はあなたがたに関係なく、永遠から永遠に至って全く正しく、義なる神である。だから、不義は不義として、あなたがたのよくないことはよくないこととして、裁かれる。」と。そして裁かれない「義人はいない。ひと
りもいない。」と。
聖書でいう罪とは、的外れ、あるいは中心軸がずれているということです。中心軸のずれた車輪は必ず壊れます。聖書が言うその中心は神様です。聖書に示されたいのちの源なる神様に背中を向けていることが、罪なのです。自分勝手な道を歩んでいる姿が罪の姿です。
パウロは的外れな人生がもたらす人間の姿を、旧約聖書から引用しました。それは、今日にも適応されます。
「義人はいない。ひとりもいない。」神様から離れて、人は決して自分で自分を正しくすることはできず、救うことが出来ません。「悟りのある人はいない。」無知であるからこそ謙遜さが求められるのに、私たちは強がりで生きることが多いのです。「彼らののどは、開いた墓である・・・」人は言葉にも行動にも無責任であるということです。言葉で人を傷つけ、のろうのです。そして自分を通すために、他人を押しのけるのです。
そして「人にはまことの神様に対するおそれ―敬虔な態度がない」と指摘します。神様に対するおそれがないという人生は、最も高慢な生き方です。私たちには本当に的外れなところがあります。私たちはそれを認め、イエス様による解決、つまり「福音」を求めまた広めて参りましょう。 |