ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2005年6月]を短くまとめてのせています。

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2005年 6月26(日) 『キリストにあって生きる者』 ローマ6章1節-11節

 この箇所で、パウロは、イエス様に従って生きて行くとは「罪に対して死んだ状態」と言います。
 しかし、クリスチャンになっても罪を犯します。「罪に対して死んでいる」とは、「もは
や罪を犯さなくなるということ」ではありません。
 パウロはガラテヤ人への手紙5章1節で「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。」と語っています。もちろん自由は、「何をしてもいい」という
ことではありません。自由には必ず条件、制限があります。自由に生きるには、この条件を満たす必要があります。
 パウロは、「イエス様を信じて生きる生涯を選ぶのか、それとも、なお罪の中にとどまってそこに生活の拠点を置こうとするのか。」と問いかけます。イエス様の恵みは、ちょうど魚が陸に上がって苦しんでいるところを助けて、水の中に戻してやるようなものです。
 魚は水の中でこそ自由になるのです。
 私たちも罪と死といった、自分の力や頑張りではそこから脱出することができな束縛の中に閉じ込められて苦しんでいましたが、イエス様は、私たちをそこから別の場所に移して下さったのです。
 「罪に対して死んだ私たち」というのは、居場所を表します。イエス様によって私たちは、私たちに本当の自由をもたらす、そういう場所に移されたのだ、とパウロは言っているのです。罪の中に留まることができないのです。
 キリストにあって生きる者とは、罪と死の中に埋もれていたのが、イエス様が引き上げられ、新しい居場所を与えられ、生かされているということです。私たちはその立場の中で喜びと感謝をもって、与えられている恵みを賛美しながら、過ごしてまいりしょう。

2005年 6月19(日) 『アダムにある人生か、キリストにある人生か』 ローマ5章12節-21節

 今日の箇所に、「ひとりの人」という言葉が出てきます。12節の「ひとりの人」は、最初の人間であるアダムを指しています。17節の「ひとりの人」は、イエス様を指しています。
 人が罪の原則の中でしか生きることのできないおおもとは、アダムにあるということをパウロは「ひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がった」と言います。アダムからすべての罪のパターンが広がった。だからアダムは全人類の罪の代表者であり、すべての人はアダムにあって、みな罪人とされているというのです。
 ここで使われている「罪」という言葉は、ギリシャ語の原文では単数形です。あの罪、この罪という一つ一つの罪ではなく、わざわざ単数形で書くことによって、「罪」が世界にはいった、すべての人は罪の支配下にあるものとなった、と言う意味です。アダムは罪の代表です。
 それに対して、イエス様は恵みの代表です。アダムは、神様への不従順、人が神のようになるという高慢によって全人類に罪と死をもたらしました。しかしイエス様は、神であられるのに、人となって来られ人の罪を負われました。人の罪を背負うことができるのは、全く罪のない人です。イエス様だけが人の罪を背負うことのできる方です。
 イエス様は、アダムから続いている罪と死の支配を完全に断ち切って、新しい恵みの支配を開いて下さったのです。クリスチャンになるということは、アダムにある世界ではなくて、イエス様の恵みの中に生かされる世界です。私たちの前におかれている道は、アダムにある人生か、キリストにある人生かのどちらかです。アダムにある人生でなく、キリストにある人生がお互いの人生でありますように。

2005年 6月12(日) 『神との平和の中に生きる』 ローマ5章1節-11節

 パウロは1節で「私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持ってい」る、と語ります。私たちが神様との平和の中に歩んでいることを確信するために、また神様との平和の中で生かされるためにはどうすればいいか、考えてみましょう。
 それは、恵みの上に立っている人生であると確信を持つことが大事です。私たちが、「いま私は、神の恵みの中にあるんだ」と理解するとき、私たちは神様との平和を生き生きと実感することができるのです。
 また、平和の中にも患難があるということを覚えておかなければなりません。イエス様を信じたら苦しまなくなるわけではありません。苦しみがやって来たとき、だれでも悩むのです。悲しいときには、悲しみを表すのが自然です。しかし患難の中にあって、悲しみや苦しみ、どうすることもできない、もどかしい思いの中にあって、私たちの人生に忍耐をはぐくんで下さる神様のおられることを信じることが大切です。神様の平和は、患難を通して私たちを練り上げ、最終的には希望へと向かわせることを信じるのです。私たちの人生がそうした期待を持って歩む人生であったら、本当にすばらしいと思います。
 それから、神様の愛が注がれているということを忘れないことが大事です。問題がないということが神様との平和の中に置かれているということではありません。神様の愛は、問題が起こっても起こらなくても、私たちに注がれているのです。イエス様を信じる者には、約束の聖霊がその心に与えられ、私たちとともにいてくださることを示してくださいます。だから、「希望は失望に終わることがない」というのです。
 そして神を大いに喜べるようになるということです。
 神様との平和は、信じる者に既に与えられているのです。その平和の中で、私たちは今週も歩んでまいりましょう。

2005年 6月 5(日) 『死者をよみがえらせた方を信じる』 ローマ4章16節-25節

 今日の箇所では、パウロは、もう一度ここで、旧約聖書から、アブラハムの姿を紹介しながら、大切な信仰の姿を教えています。
 今日の箇所の17節には、アブラハムは「死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方」であると信じたと書いてあります。
 人間に与えられている最も難しい問題は、死の問題です。どんなに財を築いても、人望があっても、死の前では無力です。早いか遅いかの問題で、例外なしに死はだれにでもやって来るのです。
 「死」は私たちにとって大きな問題です。アブラハムは、「神様は死者を生かす方だ」と信じたと書いてあるのです。「神様は、人間がどうしても解決できない死に対しても、解決を持っている方である」と考えたのです。
 アブラハムは、「自分のからだが死んだも同然」「サラの胎の死んでいる」(19)という「望みえない」状態で、「望みを抱いて信じました」(18)と書いてあります。神様は死んだからだを生かす方であると信じたのです。そして、そのとおりにイサクが生まれたのでした。
 また、アブラハムは「大切なひとり息子であるイサクを全焼のいけにえとなさい」という神様の命令に従いました。アブラハムは、「イサクをささげても、神様は死人の中から、もう一度、この子を返して下さるだろう」と信じたのだというのです。
 そしてクリスチャンとは、イエス様の復活し今も生きていらっしゃることを信じた人達です。このイエス様に従って行く者です。
 イエス・キリストは、無から有を創り出す方です。自分の中に愛が無くても平和が無くても何にも無いところから、愛も平和も創り出す方なのです。
 そのような信仰を握り締めて、この一週間も歩んで行きましょう。