ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2005年7月]を短くまとめてのせています。

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2005年 7月31(日) 『神様の子ども』 ローマ8章1節-17節

 この箇所は、二つの言葉を通して、私たちの生かされている原理、原則というものを説明します。二つの言葉とは「肉」と「霊」です。
 パウロはここでは「肉」という言葉を、「神様を受け入れない生活」という意味に用い、
「肉の中に生きる」というふうに語っています。神様により頼まず人生の中心は自分自身であるという自己中心性のことです。
 ですからパウロは、「肉にある者は神を喜ばせることができません」(8)と言いました。そして彼は、「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです」(13)と厳しい言葉で注意しました。
 パウロは「肉」という言葉に対する言葉として、「霊」という言葉を使いました。肉の生
き方は、神様を受け入れず、自己中心の生き方でしたが、それに対して「霊によって生きる」とは、神様を生活の中心に置く生き方です。
 マタイ1:23に、イエス様がこの世に来られた時、何と呼ばれたか記されています。「その名はインマヌエルと呼ばれる」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である)と書いてあります。
 私たちはイエス様を信じ生かされていく時「神様は私と一緒に、私の人生を歩んで下さる」ということを知ることができるのです。
 さて、14節以下には、「神様の子どもとしての人生が保証される」と書いてあります。御霊によって生きるとは、神様の子どもとしての人生が保証されるということです。
 神様の子どもとされるとは、神様は私たちを本当に愛されるが故に、「わが子よ」と言って下さる立場、神様を「お父様」と呼んでいい立場を私たちにお与え下さったということです。私たち一人ひとりは、イエス様にあって神様の子どもとされたのです。神様の子どもとしての人生を大いに輝かせながら、この週も歩んでまいりましょう。

2005年 7月24(日)  

※)ジョン・メイン宣教師[BGC(ボストン・ゼネラル・カンファレンス)]により礼拝メッセージ。 

2005年 7月17(日) 『ギャップ』 ローマ7章7節-25節

 スポーツや道路交通は規則やルールがなければ混乱してしまいます。ましてや私たちの人生にルールが無かったら、大混乱になってしまいます。好き放題、やりたい放題、これでは世界は崩壊します。
 愛にあふれた秩序ある神様がいらっしゃるならば、その神様が私たちに「どうぞ自由に(無秩序に)、欲望のままに生きて行きなさい」と言われるはずはありません。
 私が最も私らしく輝いて生きるために、神様は私たちにルールをつくって下さっていて「こういうことが人の生き方なんだ」と教えて下さるはずです。
 パウロは、そのルールすなわち旧約聖書の律法は、決してそれは悪いものではないのだ、と断言しました。それどころか、これは正しいもので、善なるものだと言います。なぜなら、このルールの故に、自分たちがいかに神様の与えるルールを守ることのできない弱さを持っているかを、私たちが知ることができるからです。
 15節以下を読みますと、人間の特徴の一つは、善と悪が心の中で戦うこと、とパウロは言います(19)。私たちの中にはいつも相反する思い=ギャップが心の中にあるのです。
 ですから、聖書を読み、ごまかすことなく真剣に自分の内側を見たら、だれしも、「私は本当に惨めな人間だ。だれがこの死の体から私を救い出してくれるのだろうか」と叫ぶのではないでしょうか。
 しかしぜひ覚えていただきたいのは、パウロがこの「惨めさ」を叫んだ後すぐに、「神に感謝」と言ったことです。
 私たちは、恵みの中に生かされている一人ひとりです。イエス様の十字架が、私たちのすべての罪を覆っているのです。今日も「神様。感謝します!」と叫びつつ幸い歩みを続けてまいりましょう。

2005年 7月10(日) 『キリストのもたらす解放』 ローマ7章1節-6節

 当時のユダヤ人クリスチャンたちは、「自分たちは、旧約聖書の戒めを守り、イエス様が来られて、その救いを受けたが、異邦人たちも同様にイエス様の救いだけではなく戒めも必要だ」と考えていました。
 私たちにもこのような思いを持つことがありませんか。
 パウロはこの7章で、結婚に関する法律を持ち出して説明します。私たちの以前の主人は律法、戒め、規則である、と説明したのです。そして「夫が死ねば夫に関する律法から解放され・・それと同じように、あなたがたもキリストのからだによって、律法に対して死んでいる」と説いたのです。
 ですから私たちはキリストの花嫁としてのクリスチャン生活を送ることができるということです。ですから私たちへの「努力がなければだめ」「信じるだけでは救われない」「今のあなたでは駄目だ」などという声に対して「私はイエス様の救いの中に生かされている」と告白することができるのです。そして私たちは、キリストのもたらす本当の解放というものを味わいながら、生きて行くことができるのです。
 イエス様は、私たちの本当の解放者です。イエス様が来られる前、私たちは古い文字、古い律法、外側のいろいろな習慣に縛られていました。しかしイエス様によって、そういうものから解き放たれました。私たちが本当に自分の弱さを認め、イエス様の十字架のみわざを信じ、イエス様を受け入れたときから、私自身がどうであろうが、もう既にイエス様に属する者として、キリストの花嫁として生かされているのです。
 そのような者として出発し歩み続けるのが、クリスチャン生活です。どうぞ自信を持っ
て、自分がキリストの義の器であることを知って下さい。どうぞ自信を持って、私は恵み
の下に置かれているんだということを、いつも覚えて歩み続けてまいりましょう。

2005年 7月 3(日) 『義の器として』 ローマ6章12節-23節

 「ささげる生き方」について考えましょう。パウロは13節で、「あなたがたの手足を義の
器として神にささげなさい」と言っています。私たちの人生を何にささげるかということは、人生を大きく変えます。自分の欲望のままに、自分勝手な思いのままに進めば破壊に向かいます。そこでパウロは、「私たちの人生を義の器として神様にささげなさい」と言ったのです。
 神様にささげるとは、自分の人生すべてが神様に握られている、ということを理解することから始まります。神様は私たちの人生を握っておられるのです。
 さらにパウロは、罪の奴隷になって死に至るような生き方をしている人がいる、と言いました。罪の奴隷というのは、その時は何も感じなくても、結果的に私たちの骨を腐らせ、枯らすのです。聖書は、「人はみんな罪の奴隷だ」と言います。
 しかし、福音は「救いを得させる神の力」です。イエス様がもたらした救いは、罪の奴隷から解放し、イエス様のしもべとして、義の器として生きて行く人生を提供するのです。
 ですから、クリスチャンはみな義の奴隷とされているのです。義の奴隷というのは、神様とまっすぐな関係を持ち、神様を認めて歩むということです。そしてこれが「イエス様を信じる」ということです。
 だからこそ、神様に自分の人生をゆだねて生きて行くとき、輝くことができるのです。私たちは義の器として、今日ここにあることを知り、神様に人生をゆだねるということを知り、キリストのしもべとして生かされていることの意味を理解しながら、神様に喜ばれるしもべとして歩んで行きましょう。