2005年 8月28(日) |
『あわれみの器』 ローマ9章19節-33節
今日の箇所の23,24節を読みますと、私たちは神の栄光を現すための「あわれみの器」であることがわかります。人は神様から責められているという意識を持ってしまいます。しかし、そこからは何の良きものも生まれません。その中からは生きる喜びや、充足感を得ることは決してできません。聖書に「放蕩息子の話」というのがでてきますが、それは想像もつかないような「赦しの愛」のお話です。神様はあの放蕩息子を迎えた父の姿と同じ方です。あなたがどんな過去を持っていても、そのままを受け入れ、神様の子として迎えてくれる方です。聖書が語るところの福音は、とてつもなく大きな赦しです。命がけでなされた十字架の事実です。イエス様があなたのすべての罪を背負うという、考えられないほど大きな愛です。私たちが何かをしたから、努力をしたから与えられるものではなく、あわれみのゆえの愛、一方的な恵みなのです。
また、今日の箇所の最後のところに、彼に信頼する者は、失望させられることがないと書かれています。「失望させられることがない」とはすばらしい言葉です。キリストに依り頼む者は、失望がないというのです。力強い言葉です。力強い約束です。
神様の目から見たら、私たちは「怒りの器」「怒りの対象」のようなものです。しかし神様は、「あわれみの器」「愛の対象」として私たちを生かして下さるのです。それは、私たちが何かをしたら手に入れられるというようなものではありません。それは圧倒的な、大きな恵みの中で与えられたものです。そればかりか、たとえ、失望してしまいそうな人生であったとしても、それで終わることのない人生が保証されているのです。それが神様を信じ、イエス様を信じる者の人生です。
「怒りの器をあわれみの器として、神の栄光のために用いて下さい」との祈りをもって、どうぞ、主に信頼して日々を歩みましょう。 |
2005年 8月21(日) |
『約束の子ども』 ローマ9章1節-18節
今日の箇所から、二つのことを考えたいと思います。
一つ目は、「神のみことばは決して無効にならない」ということです。神様のみことばは決して無効になることはありません。なぜなら、神様は、主権をもって選ばれているからです。もちろん私たちはユダヤ人ではありませんが、キリストによって神様の選びの中にあるのです。
そして、神様の選びの中にある人生においては、神のみことばが無効になるはずがありません。それは、神のあわれみがあるからです。私たちは神のあわれみの中で生かされるのです。パウロは、同胞のユダヤ人に何とかしてこのことを知ってもらいたかったのです。
その機会が沢山与えられていることを知ってもらいたかったのです。彼は、「みことばは決して無効にならないのだ」と叫びたかったに違いありません。
もう一つの考えたいことは「神様には決して不正はない」ということです。時々、「神様
は不公平だ」と思うことがないでしょうか。
神様の主権とか選びとか言うと、「神様が勝手に選び、選ばれなかった人がかわいそうだ」と思いがちです。しかし神様は、くじを引くように気ままにしているわけではありません。
「神はパロの心をかたくなにされた」と記されていますけれども、出エジプト記を読むと、神様は何回もパロの心が砕かれるように機会を与えています。それでもパロは、拒み続けたのです。神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされる方です。しかしその背後ですべての人に機会が与えられ、すべての人に神の恵みが示されているのです。そして、私たちがそれに対して心から応答していくとき、神様は「わたしはあなたを選んだ。これはあなたが生まれる前から定まっていることだ」と言って下さるのです。私たちは神様の約束の子供なのです。本当にそのことを味わう一週間、約束の子供として歩む一週間を過ごしましょう。 |
2005年 8月14(日) |
『だれですか』 ローマ8章31節-39節
ここには四つの問いかけが出てきます。
一番目は31節の「だれが私たちに敵対できるのか」です。
パウロは、「神様が私たちの味方であるならば、だれも私たちに敵対できない」と答えています。一人一人の最善を願い、そのために働いて下さる方が、私たちの傍らに味方としていて下さるのです。
二番目は33節の「あなたを訴えるのは、だれか?」です。
私たちに対する「それでもクリスチャンか」と言う声のあることを知っています。外側か
らの声だけでなく自分の心が自分を責める声もあります。そしてパウロ自身もそういう声を聞きながらも、「訴える者はいない」と結論づけたのです。なぜなら、神様が義と認めて下さるのだから、と言うのです。自分を責め、自分を惨めにしていく、そういう人生は、私たちが選び取る人生ではありません。
三番目は、34節の「罪に定めようとするのはだれか?」です。
罪とは「的外れ」という意味があります。ですから的である神様からはなれないように歩み赦しの中を歩むならば、罪に定める者は、もはやいないのです。自分の罪を正直に神様に申し上げ、悔い改めて、罪赦された者として歩むのです。
四番目は、35節の「キリストの愛から引き離すのはだれか」です。
パウロは、神の愛を引き離すものは何もないと言いました。神さまの愛はどんなものをもってしても引き離されるものではないのですが、残念ながら、わたしたちは、あまりにも簡単に神さまの愛を自分から引き離してしまうことがあるのも事実です。だれかを責めるのでなく、赦しと平和と謙遜が豊かに育まれる教会でありたいと思います。
どうぞ、この一週間。今日、この四つの問いかけに思いを潜めながら歩んでまいりましょう。 |
2005年 8月 7(日) |
『神を愛する人々』 ローマ8章18節-30節
今日の箇所の28節には、これまで出てこなかった表現があります。それは、「神を愛する人々」という言葉です。今まで私たちは、神様が私たちを愛しているということを、沢山聞いてきました。そして神様の愛を受け取ると、私たちは神様を愛する者へと変化がもたらされます。
人は、愛されることによって安心し、愛することによって、本当の満足を得るのではないでしょうか。クリスチャンとは、イエス様を救い主として受け入れ、神様の愛を知り、神様を愛する人たちなのです。
パウロは、神を愛する人々を「神のご計画に従って召された人々」と言っています。神様は、私たちをあらかじめ知っておられ計画をお持ちで、選んでくださっていて、それは、私たちの罪を赦し義と認められるように召してくださっているということです。「そういう人生を送らせるために、わたしはあなたを召した」と神様はおっしゃるのです。クリスチャンは、そんなすばらしい計画のために召された者なのです。
そしてそれは「私たちの人生は、神様がすべてを働かせて益としてくださる人生だ」ということです。
エレミヤ書29:11節にこう書いてあります。「主はこう仰せられる。わたしはあなたがたのために立てている計画を、よく知っている。それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」
どうぞ、「神様はすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っていま
す」と告白しながら、歩んで行きましょう。
そしてダビデが語りましたように、「私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある」という人生が、今週の皆さんの歩みであるように、心からお祈りしたいと思います。 |