ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2005年9月]を短くまとめてのせています。

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2005年 9月25(日) 『すべての人をあわれむ神』 ローマ11章11節-36節

 ここに、妬みということが語られています。クリスチャンとして歩む時、その人生はねたみを起こさせるほど魅力的である、ということが言えます。それほどのものなのだ、と聖書は語るのです。
 魅力的な人とは、どういう人でしょうか。それは、何か立派なことができるというような
ことではないと思います。魅力的な人とは、神様に信頼することを忘れず謙遜を心得ている人です。私たちが何かできるとか、できないとかいうことは、それほど重要ではありません。私たちの人生は、私たちに与えられている救いの実質というものは、人々に、「あの人には何かがある」と言わしめるほどのものなのです。ねたむ人生でなく、キリストの救いのゆえにねたまれる人生であるべきです。
 もちろん私たちは多くの失敗を経験します。しかしパウロが12、15節で語っているこ
とは、神様の目で見たら、失敗すら救いにつながるということです。パウロはユダヤ人の現実を見ると本当に悲しいけれど、将来を見通したとき、本当にすばらしいことを経験することができると確信しています。さらに確かに他の人にねたみを引き起こすほどの恵みを頂いているが、私たちがもし傲慢な生き方をしたら、神様の道から外れることになるのは言うまでもありません。異邦人であってもなくても、イエス様はヨハネ15章で、「わたしにとどまりなさい・・・枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません」といい私たちがイエス様につながっていることの大切さを教えています。イエス様につながるということは、イエス様のみことばに信頼し、神の愛に生きることだ、と教えられています。
 私たちがキリストによって生かされるすばらしさは妬みをもたれます。そんな人生へと神様に変えていただきましょう。しかし、けっして気負わず「大きなことをする」というの
ではなく忠実に神様に信頼し、接ぎ木されている者として、謙遜をもって生きていくこと
にいたしましょう。

2005年 9月18(日) 『恵みの選びによる残りの者』 ローマ11章1節-10節

 パウロはこの11章のところで、旧約聖書のエリヤという人物のことを取り上げて、大事な事を教えています。
 エリヤは、850人の、バアルやアシェラの預言者をほろぼしました。しかし、アハブ王の妻、イゼベルこのエリヤの勝利に烈火の如く怒り殺そうとしたのです。それを聞いたエリヤは大変落ち込み自分は孤独だと考えたのです。しかし神様は、エリヤに「一人が奮闘しているわけでなくイスラエルの中に、7千人もの人達が準備されている。」とエリヤに教えられました。
 私達も、自分一人でなんでもやってきたと考えることがよくあるでしょう。しかし、多く
の支え、多くの残された者がいるのだと聖書は語るのです。私達は孤軍奮闘することがありますが、背後に多くの神の選びの器が用意されているのだということを、覚えたいと思います。
 この「残りの者」を別の言い方にすると、「取っておきの者」と言い換えられます。神様
は、取っておきの者を私たちのために用意されている、いや、私たち自身が神様の取っておきの人物なのだとも考えることができます。
 つまり、一人になったと思っても、必ずあなたの背後に取っておきの人物がいるのです。
 ある時には、あなたが誰かの取っておきの人物になるでしょう。それぞれが、それぞれの取っておきの人物として支えていくのです。神様の約束は、私たちを見捨てません。そしていつでも、恵みの選びによって残されたものがいるのです。
 私たちは高慢になるようなことがあってはなりません。私達は自分の努力で救いを得たわけではありません。一方的な恵みによって生かされているのです。だから、どうぞ今日一人一人が、自分の人生は、神様が備えてくださった、取って置きの人生として生かされていくのだという事を心に覚えながら、この一週間も歩んで行きましょう。

2005年 9月11(日) 『手を差し伸べる主』 ローマ10章14節-21節

 この箇所から、二つのことをご一緒に考えていきましょう。
 一つ目はパウロがイザヤ書52章7節の言葉を引用して、「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう」と言っている部分です。これがキリストの証人である私たちの生きる姿だ、といいます。キリストの証人として生きるということに、私たちは何か義務的な受け取り方をしがちです。しかしパウロは「遣わされて生きる」ということに、何とすばらしい姿を描いているでしょうか。それが、クリスチャンの生き方だというのです。
 戦争をしている時、イスラエルの民が一番待っていたのはもちろん勝利の知らせです。「良いことの知らせ」とは、勝利の知らせです。パウロはキリストを宣べ伝える姿の中に、また、キリストに従って行く姿の中に、いつも勝利があることを言っています。「クリスチャン一人ひとりは勝利の伝令をする者だ」という位置付けをしたのです。私たちもこの「良き知らせ」を人々にもたらし、伝えていく一人ひとりとして歩んで行くことができたらと思うのです。
 二つ目は、神様のあわれみということに目を留めたいと思います。
 「不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた。」とあります。神様は、あのかたくななユダヤ人に対してさえ一日中、手を差し伸べておられる方です。その神様が私たちに対しても手を差し伸ばして下さったのです。私たちは何をすべきなのでしょうか? 
 私は不従順な者でした、と悔い改めましょう。そしてあなたのその差し出された手に握られて歩んでいきます、と告白することが、私たちの応答なのです。また、私たちは、信じて歩んでいてもときどき不従順になることがあります。しかし、神様の手は、今も私たちに対して差し伸ばされているのです。何度でもその差し出された手に握られて歩みなおすことが出来ることを覚えて歩んでまいりましょう。

2005年 9月 4(日) 『信頼する者』 ローマ10章1節-13節

 パウロは、「あなたがたの熱心さは、あなたがたを不自由にしている。その不自由から解放されるには、あなたがたの熱心が、本当にあなたがたを建て上げる熱心さに変えられなければならない」と彼は語りました。
 私たちが必要とする正しい熱心さの一つ目は、(9,10節にありますように)「あなたの口でイエスを主と告白すること」です。
 「この方がわたしの主です」と告白することは、イエスさまに信頼し、イエス様を中心に
おき、従いますと告白するということです。
 二つ目は、9節にありますが「あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じること」です。
 イエス様は十字架につけられ、殺されましたが、三日目によみがえられたのです。そして、今もイエス様は生きて働いておられる方なのです。確かにいくら「イエスは主である」と告白しても、イエス様が墓の中で眠っておられる方では、何の力にも救いにもなりません。しかし、イエス様は今も生きて働いておられるのです。
 この二つのことに熱心である者には、二つのすばらしい約束をここで示しています。
 一つ目の約束は、彼に信頼する者は、失望させられることがないということです。先週も引用された言葉です。イザヤ書27章16節の引用です。イエス・キリストに信頼する者は、失望に終わることがないというのです。私たちにはイエス様を主と告白し、よみがえられたことを熱心に信じるならば失望に終らない人生が約束されているのです。
 二つ目は主の御名を呼び求める者は、だれでも救われるということです。この方を呼び求める者には、区別はありません。「だれでも救われる」と約束しているのです。間違った熱心さではなく、イエス・キリストを信頼する熱心さを持って生かされていく一週間を共に歩んでまいりましょう。