ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2005年11月]を短くまとめてのせています。

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2005年11月27(日) 『神に仕える誇り』 ローマ15章14節-21節

 パウロは16節で「異邦人のためにキリスト・イエスの仕え人となるために…」と言いました。
 パウロは、異邦人を神様が嫌われる民、神様の愛の対象外である、と考えていたのです。それが、今や、異邦人のために仕え人となっていると記しました。神様の恵みは、人を変えることができるのです。
 また17節では「誇りを持っている」と続けます。パウロが誇るといったものは、何でしょう。
1)神様に仕えることを誇る
 私たちの与えられている人生は、それぞれの場において、神様に仕える生涯です。この使える生涯は、決して、裏切られることなく、変えていただき、謙遜があたえられ、愛が与えられるのです。
2)キリストを誇る
 またパウロはピリピ3:3で「キリスト・イエスを誇る」と言います。彼は、学歴、家柄、血統などはゴミに過ぎず、キリストを知っていることのすばらしさのゆえに、これらのものを損と思うといいます。私たちもキリストの救いを誇り、十字架を誇りましょう。
3)自分の弱さを誇る
 さらにパウロはUコリント12:9で「キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」といいます。わたしたちは、あるがままの自分をそのまま神様に打ち明けることが出来ます。弱さを覆う方が私たちの主であるからです。
 私たちもパウロと同じ、キリストの仕え人です。これは誇ることが出来るのです。キリストを誇り、自分の弱さをキリストの力が私をおおうために誇りたいと思います。私たち一人一人が、ますますあらゆる状況の中で用いられていくことが出来ますように。そしてその中でキリストの仕え人であることを誇りとする歩みを今週も歩んでまいりましょう。

2005年11月20(日) 『忍耐と励まし、希望』 ローマ15章1節-13節

 忍耐が好きな人は多くはないと思いますが、忍耐とは、ただじっと我慢して待つということではありません。聖書でいう忍耐とは、大きな苦難が襲って来ても、その中に、神様の手が差し伸ばされていることを信頼していくことです。忍耐とは非常に積極的な意味があるのです。そして、主に信頼して待ち続けるために必要なのは、これも神様からの励ましです。私たちは忍耐とその忍耐のために励ましを与えられて生かされているのです。
 6節に「それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。」とあります。励ましは、私たちを賛美に向かわせるのです。希望は賛美を生み出します。教会の中に賛美がなくなったら、それはもはや教会ではありません。もし、クリスチャンの生活の中に賛美がなくなったら、その生活を点検する必要があります。
 賛美することができないほど、疲れている方、病気で苦しんでいる方、精神的に落ち込んでいる方がいらっしゃるかも知れません。でも、知って下さい。見守られる忍耐の神様がいて下さいます。
 また、パウロは「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように」(13節)と祈っています。私たちの神は忍耐と励ましの神であるばかりか望みの神だ、というのです。
 「忍耐と励ましの神様。私に忍耐と励ましを与えて下さい。望みの神様。私は今、抱えている問題を自分で考えると本当に暗くなってしまいます。でも、あなたは望みの神です。どうぞ、私の唇に賛美を与えて下さい」とご一緒に祈りましょう。私たち一人一人、今日、望みにあふれる人生を願って祈りつつ歩んでまいりましょう。

2005年11月13(日) 『愛の配慮』 ローマ14章1節-23節

 当時のローマ教会のクリスチャンの多くは、ユダヤ教からの改宗者でした。彼らはイエス様を信じてクリスチャンになったのですが、律法主義を持っていました。ローマ教会の中には肉を食べるグループもあれば、肉を食べないグループもあり、ユダヤ教のお祭りをクリスチャンであっても大切に守ろうとする人たちがいました。そしてお互いに自分の主張の故に、裁き合いがなされていたのです。そこでパウロはひとりひとりが愛の配慮を身につけて互いに接していきなさい、と勧めるのです。
 パウロは「キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください」(15節)と言いました。私たち一人ひとりのためにイエス様が命を捨てられたほどに私たちは神様に愛されている存在なのだから、ささいなことで他人を排除したり、その人生を台無しにしてはいけない、と言ったのです。今日の教会でも、さばき合いがあり、その中心には、実にささいなことなのです。
 パウロはこの章の最後で、「信仰から出ていないことは、みな罪です」と言っています。信仰は神様から与えられたものでありその与えられた信仰によって、お互いに慎み深く判断しなさい(12:3)と勧めています。
 そして、ここでは「信仰から出ていないことは罪だ」と語っているのです。これは、自分に与えられた信仰の量りではなく、自分の価値観、自分の型に他人をはめ込もうとしたり、また、他人の型に自分をはめ込もうとする態度のことだと考えられます。そこに罪が生じるのです。
 では必要なのは、なんでしょう。愛の配慮です。私たち一人一人は互いにキリストが代わりに死んで下さったほど尊い、あがなわれた者なのです。互いに愛の配慮をもってさばき合いを全部排除していきましょう。お互いに本当の神の国、神様が与えられる義と平和と聖霊による喜び、この中に生きていきましょう。そう願いながら、今週も歩んでまいりましょう。 

2005年11月 6(日) 『主イエス・キリストを着る』 ローマ13章1節-14節

 私たちは、二つのものに属していることを自覚しなければいけません。この社会における責任ある一員としての自覚と、この世界を支配されている神様の民の一員としての自覚です。
 パウロは今日の箇所で、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです」と言っています。これは「国家の一員としての義務に忠実であるべきだ」と言っているのです。なぜなら、私たちは国家の中でその部分として生活していますから、税金を納め、国家の法に従うというのは当然のことだからです。
 続けてパウロは8節で、「ただし、互いに愛し合うことについては別です」と言っています。「私たちの人生に愛を増して下さい」と祈る者になりたいと思います。そうでなく13節にある闇のわざに生きるならば必ず破壊、滅びるのです。
 パウロは14節で、「主イエス・キリストを着なさい」と言っています。とても面白い言葉だと思いませんか。この箇所は、有名な神学者アウグスチヌスがこの言葉を通して回心したことでも知られています。その著、『告白録』の中でこのように述べています。「この言葉を読んだ時、私の人生は変わった。主イエス・キリストを着なさいという言葉で自分の人生は180度変わった」というのです。
 「主イエス・キリストを着なさい」というのは、何か立派なことをしなさいということを意味しているのではありません。私たちが衣を着るように、主イエス・キリストを着るということです。衣は寒さや傷から守るものです。そのように主キリストを身に纏いなさいということです。
 以前の衣(古い価値観)を脱ぎ捨てる必要があります。そしてイエス・キリストが表に現され、私は隠れるのです。またそれはイエス様が共に歩んで下さるということを意味します。キリストが衣となっている事に目を向けながら、今週も歩んで参りましょう。