ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2005年12月]を短くまとめてのせています。

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2005年12月25(日) 『神は私たちとともにおられる』 マタイの福音書1章18節-24節

 クリスマスおめでとうございます。今年のクリスマス礼拝は、マタイの降誕物語を選ばせていただきました。ここには、2つの名前が出てきます。一つは、もちろん一番よく使う名前、「イエス」です。もう一つは、普段あまり使わない「インマヌエル」という名前です。
 イエスという名前はギリシャ語ですが、ヘブル語に訳すとヨシュアとなり、「主は救い」という意味を持っています。このインマヌエルという言葉はインマヌー「我らと一緒に」という意味とエル「神」という意味のふたつで「神は我々と共にいる」という意味に訳すことが出来ます。新改訳聖書でもその意味がよっぽど大事だと見えて、わざわざ、カッコに入れて説明しているようです。
 このインマヌエルという名前に、今日は注目したいと思います。ここで、この言葉の意味が聖書に書いてあるように、「神われらと共にいます」である事は分かりましたが、聖書はイエスがそう人々に呼ばれると語っています。
 実は同じマタイによる福音書の最後の言葉、マタイ28:20にある「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」という言葉で、マタイの最初と最後で「ともにいるイエス様」という、全体の最も大切なメッセージの一つであることが分かります。
 このイエス様が生まれたのがクリスマスです。イエス様は、神様から我々に届けられた、最初のそして、最高のクリスマスプレゼントです。彼の名前が示す様に、もう一度、私たち自身の心に「主は救い」「神われらと共にいます」この言葉を刻んで喜びで満たし、ここから主によって送り出されましょう。また新しく始まる一年も、決して「主は救い」「神われらと共にいます」というこの言葉を心から消し去ることなく、力強く歩んでまいりましょう。

2005年12月18(日) 宣教10周年感謝礼拝『神の時』 マルコの福音書1章1節-15節

 10周年感謝礼拝をおささげ出来ますことを感謝します。
 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(15)とイエス様は語り、宣教を開始されました。「時が満ちて」とありますように、救いが「この時・この時代」に来たと宣言されたのです。
 神様はイスラエルの民が救い主の訪れを切実に待ち望んでいる時に、バプテスマのヨハネを遣わし、人々が神様の御声を聞く心の備えをさせ、ローマ帝国(宣教に有用な共通語)をも用いて福音を伝える下地を整えられたのです。偶然救い主がこの世に来たのではなく、全ての備えが整い、神様のご計画の中で最も相応しい“神の時”に救い主が「この時・この時代」に遣わされて来たのです。全てが主のご支配の中にあり、計画の中にあって行われていったのです。
 私達は通常、本当に必要な時に様々な困難や問題の解決が得られる事を願っています。ですから必要な時にその解決が得られないと、とてもがっかりしてしまいます。
 イエス様でさえ、十字架を前にした時に「どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。」と祈りました。しかし、何よりも神様は様々なご計画を用意しているという事を覚えなければなりません。イエス様も「わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままをなさってください。」と祈りました。イエス様はこの戦いを通って従順を学ばれたのです。10周年を迎えた私たちも新しい10年、20年に向かって歩む時に、「神の時」を切に求めて歩むべきではないでしょうか。
 これまで私たちの教会が歩んできた神様の導きに感謝しましょう。そして新たな10年へのスタートを歩みだすこのときに、しっかりと手の中に握りしめている「自分の時」「自分の思い」ではなく、「神の時」「神様の導き」にしっかりと委ねて、「全てが神様の主権の中にある」という信仰をしっかりと握り締めて歩んでまいりたいと思います。

2005年12月11(日) 『預言』 ルカの福音書1章67節-80節

 ここはバプテスマのヨハネの父であるザカリヤを通して語られた預言の言葉ですが、イエス様誕生以前の最後の預言です。
 注目したいのは78節です。「われらの神の深いあわれみによる」とあります。 このあわれみと言う言葉は、とても興味深い言葉です。ギリシャ語での元々の意味は「内臓」です。ですからこの「あわれみ」というのは、内臓が引き裂かれるような思いとして用いられている言葉なのです。この神様のあわれみというのは穏やかな優しい思いのあわれみではなく、それこそ身を裂くような思いであるということができます。
 自分の子供が苦しんでいる時に「何もしてあげられない、変わってあげられない…」というあの痛みに近いのではないでしょうか。風邪のシーズンで混んでいる病院の小児科でのことでした。そこには何組もの親子が来院していました。おそらく突然の体調悪化ですから予約ナシで飛び込みの診療だったのでしょう。待たされ、しかももどしてしまう子もいて顔の前に洗面器を握り締めていたり、ベンチーシートをそのまま横になって使っていたり。しかし痛々しかったのは子供と同時に、そんなお子さんを見守る親御さんでした。周りの目も気になるでしょうし、なによりも愛する我が子が苦しんでいるのに何もしてあげられない...。
 まさにそのような思いの中で神様はイエス様を我々に送り出して下さったと聖書は語っているということが出来るのです。「暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く」為に、つまり、罪から我々を解放する為に、そして、十字架にかかり死ぬ為に、イエス様は神様によって送り出されてきたのです。クリスマスの喜びは深い「神様のあわれみ」の故です。クリスマスは私たちにとって神様からの永遠の救いの出来事を告げ知らせる喜びの日であるという深い意味に感謝しながらこの時期を過ごしてまいりましょう。

2005年12月 4(日) 『待望』 ミカ書5章2節-6節

 このミカ書の5章は、キリストの誕生の預言として良く知られている箇所です(マタイ2:6)。当時のイスラエルは、周囲の強国の脅威に晒(さら)されていました。実際に北イスラエルは紀元前721年に崩壊します。人々はその状況からの解放者としての救い主メシア、政治的・軍事的指導者を求めていました(5,6節)。
 しかし、実際のイエス様は、民衆が求めたような政治的指導者でも、軍事的指導者でもありませんでした。十字架の死による罪の贖いこそイエス様が救い主キリストである最大の証でありますが、当時の人々はそのことを理解する事ができませんでした。
 アドベントとは「来臨」とか「到来」と言う意味を持っています。しかし、この到来を「待ち望む」「待望」という事でキリスト教の中では特にこの時期を指して使われる様になりました。私たちは、イエス様は既にお生まれになり、十字架で私たちの罪の為に死に、復活して今なお生きて私たちと共にいてくださる、という事を知っています。では、私たちがこのアドベントのときは一体何を待ち望むのでしょうか。
 三つのものを待ち望みたいと思います。
 第一は、もちろん、素晴らしい救い主イエス様の誕生をお祝いする今年のクリスマスを待ち望みたいと思います。指折り数えて、クリスマスをお祝いし感謝し、恵みを分かち合う時を待ち望みたいと思います。
 第二は、改めてイエス様こそ私の救い主であるという「信仰と確信」を求め、私たちが実を結ぶことが出来るように待ち望みたいと思います。まだ信じていない方は信じることが出来るように待ち望みましょう。
 第三は聖書に約束されている、イエス様の再臨です。聖書の語る再臨の時には、神様から永遠の命が与えられるという希望と救いの約束があるのです。
 主に信頼しつつ改めて主に従う生涯でありたいと願います。