ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2006年1月]を短くまとめてのせています。

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2006年 1月29(日) 『私たちはどうすればよいのでしょう』 ルカの福音書3章3節-14節

 バプテスマのヨハネは、人々に悔い改めを説きました。自分たちの先祖にアブラハムがあるとし、神様に選ばれているとしてあぐらをかいていたユダヤ人を厳しく戒めたのです。そして自分を神様の前に謙虚に省みて悔い改めることが重要だ、と言うのです。
 そのような悔い改めの説教を聞いた人々はどうしたでしょうか。人々は「それでは、私たちはどうすればよいのでしょう。」とヨハネに尋ねます。み言葉を聞いてもそれに対して何の応答もなければ、それは聞き流しただけです。ですから、これはみ言葉を真剣に聞いた人の正しい態度です。
 さて、ここでバプテスマのヨハネはそれらの問いに一様の答えをしていません。もしバプテスマのヨハネの答えを誰にでも当てはまるように普遍的な言葉に言い換えるなら、「この世に仕えていた自分の罪を悔改め、神様に使えるものに変えられなさい」ということでしょう。しかし具体的には「どうしたらいいのですか」という問いには、一定の決まった答えがあるわけではありません。み言葉への応答も、それぞれに、違った答え、違った行動があるのです。そして本来は、これらのことは命じられるのでなく、自発的になされるべきものです。不承不承するのでは余り意味がありませんし、喜びもないでしょう。
 ルカ19章で、ザアカイはイエス様に出会って悔い改め、イエス様から命じられたのでなく、自らの意志で、「自分の財産の半分を貧しい人に施します」と言いました。ザアカイは、イエス様に出会い、悔い改めの気持ちを持ち「何をすればいいのか」という問いを自ら発し、自分で答えを出しているのです。
 私達も常に神様に立ち帰り、そこで「何をすればよいのですか」ということを真剣に問い、自ら自発的に神様に喜ばれる決断をし続けるということを日々の生活の中で行っていきたいと思います。

2006年 1月22(日) 『自分の父の家』 ルカの福音書2章40節-52節

 今朝からルカによる福音書の連続講解を始めたいと思いますが、クリスマスの記事は毎年必ず触れますので、その後のところからスタートしたいと思います。
 イエス様の両親は、敬虔な人であったので子供が小さい時から祭りの時の巡礼のためにエルサレムに連れて来ていたと思われます。巡礼の旅は、その町の人が一緒に行くのが習慣でしたので恐らくナザレの人々と一緒に旅をしたのでしょう。
 マリヤやヨセフも、イエス様がてっきりその群れの中にいるものだと思っていたのでしたが、いないことに気がつき探していました。
 そして探し出したときイエス様は、ユダヤ教の律法を教えるラビたちの間で話を聞いたり、質問したりしていたというのです。よく宗教画などで、あたかも少年イエスが先生になって、皆に教えているような印象を受けますが、イエス様がラビたちに教えていたとは書いてありません。イエス様は、賢くて向学心旺盛な少年であったようです。そしてイエス様の受け答えに、12歳にしてはとてもしっかりしている、ということで周りの人達が驚いた、というのです。
 さて、母マリヤはいなくなった子供を心配して「どうしてこんな事をしてくれたのです」と、怒りも込められた言葉が発せられます。これに対してイエス様は、「わたしは父の家にいる」と言います。「父の家にいる」というのは、神様の住まいである神殿にいるということ以上に、わたしの存在は父なる神様のものだ、ということです。そして私達を含むすべての者の存在が父なる神様のものである、ということをも言っています。私達の生命そのものを与えて下さったのは、父なる神です。従って、私達の人生も神様のためのものです。
 イエス様は、「私は自分の父の家にいる」と言われましたが、私達もまたそうです。私達は、神のみ心に従った歩みをしたいと思います。

2006年 1月15(日) 『善にはさとく、悪にはうとく』 ローマ人への手紙16章3節-27節

 ついにローマ人への手紙の最終回です。
 パウロはこの手紙の最後の教えを記しています。教えというよりも、私たちに必要な心備えといったほうがいいかもしれません。それが今日のタイトルにもなっている19節のところです。
 「さとく」とは、「賢く」とか「熟練した」という意味です。パウロは「善の熟練者になりなさい」と言ったのです。では善とはいったい何でしょうか。これは、続いて対照的に出でてくる悪ということを考えると分かりやすいと思います。
聖書では悪者、悪という言葉は、神様を必要としない人、神様を無視する生き方を指しています。
 ですから、善とは、神様を信頼し愛する人、いつも神様の介入を認めて生きていく人生を指しています。そして、私たちが熟練すべきは「救い主イエス様が共にいて下さる。神様が共にいて最善に導いて下さる」ことの中を歩んでいくことです。
 「悪にはうとく」の「うとく」というのは、「純粋な」「シンプルな」という意味です。つまり、悪に対して純真さを保ちなさい、悪と混ざることがないようにしなさい、という意味です。ですから、神様抜きの生き方という不純物、神様以上の存在を人生に混ぜるな、ということです。
 パウロはローマの教会の人々にこの手紙を通して、さまざまなことを語り教え、論理的にも問題になっていることの解決を備えましたが、その手紙の最後で、「善における熟練者として、そして不純物が混じる余地を作らず純粋でありなさい」と勧めているのです。
 ローマ人への手紙を長らく読んでまいりましたが、私たちの願いもまた、神様に対する信頼、悪と混じることのないように純粋さが保たれ、神様の私たちの人生に対する介入にいつでも確信が持てるように熟練させられていきたい、と覚え続けるお互いに、ますます成長させられる教会でありたいと思います。

2006年 1月 8(日) 『力を尽くして神に祈る』 ローマ人への手紙15章22節-16章2節

 ローマ人への手紙もいよいよ終わりに近づいてきました。
 パウロはどこでも大胆に語り、すばらしい働きをしてきました。そんなパウロでしたが、彼は伝道者として出発する時、必ず一つの原則を持っていました。それは、「教会によって送り出されて行く」という姿勢です。そして教会から送り出されたパウロの支えは、その背後にあった多くの教会の祈りでした。その祈りが彼の働きを支えていたのです。彼はそのことを知っていました。
 人間は成功を重ねると、高慢になり、自分は何でもできると思うもので、しばしば得意だと思っている分野で失敗するのです。
 パウロは独りでもさまざまな働きが出来たかもしれません。しかし彼は、主にある教会から送り出されることによって、主の働きがなされることを知っていました。
 そのことを無視したら、私たちの働きは空しいものになってしまいます。教会が祈りをもって送り出していく、これが伝道の基本です。直接的な伝道だけではありません。クリスチャンとして、この世の中に私たちそれぞれが遣わされているのです。会社や学校、家庭、時にはデジタルのインターネットの世界に遣わされることすらあるでしょう。それぞれ、いろんな場所に遣わされているのです。
 しかし、私たちはどのような場でも決して独りではないのです。教会によって、あるいは、祈りの仲間によって支えられているのだ、ということをぜひ覚えていただきたいと思うのです。
 そのためにも週の初め、教会に集うということは大変大きな意味があります。
それは、いつもここから出発することを確認する、ある意味で、送り出されることを確認することだからです。私たちの教会は互いのために祈り合う者たちの集う教会、心から祈り合う一人一人となっていきましょう。

2006年 1月 1(日) 『わたしの霊によって』 ゼカリヤ書4章1節-14節

 この「『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。」(ゼカリヤ4:6)というみことばは、連合の新しい年度のテーマ聖句として掲げられました。クロスロード教会では、4月の新しい年度から同じみ言葉を年間テーマとして掲げたいと思います。
 ペルシャの王ダリヨスの時代、エルサレムに帰還したユダヤ人は神殿再建に着手したが、ユダの残留民とサマリヤ人らの妨害で中断せざるを得なくなりました。
 民は神殿再建の夢が破れ、希望は忘れられ、神殿に関して無関心、無頓着になり、生活第一の利己主義に陥ります。こういう民を励まして工事を再開させたのが、預言者ゼカリヤです。
 7節に「大いなる山よ。おまえは何者だ…」とありますが、この「大いなる山」とは神殿再建中断という大問題のことをさしています。つまり今は非常な困難があるのだということです。妨害と信仰の低下と利己主義が大山のように立ちはだかっていたのです。しかし、その大山は平地になると約束されています。妨害は跳ね退けられ、信仰は回復され、再建が成るという約束なのです。
 私たちもそのような場面に出くわします。しかし、神様のそのような状況に対する答えは「その大山は平地になると約束」だったのです。でもその答えが大事なのではありません。「その大山は平地にならない」という答えもあるからです。
 では、何が大事なのでしょうか。大事なのはその導きを得る秘訣です。その秘訣が「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。」(6節)です。「権力によらず」とは、団体の権力ではないということ、「能力によらず」とは、個人的な力量でもないということです。
 今年も大いなる山はあることでしょう。しかし、神様の霊の導きにしたがって大山が平らにされたり、その大山を乗り越えていく者そういう教会にならせていただこうではありませんか。