ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2006年2月]を短くまとめてのせています。

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2006年 2月26(日) 『権威と力とで』 ルカの福音書4章31節-41節

 32節に「そのことばに権威があった」とあります。イエス様がみ言葉である聖書の言葉を語ったからです。ただ単に聖書の言葉を語ったというのでなく、聖書の言葉に命と力があったからこそ権威があったのです。
 私たちも、聖書が真に権威ある言葉であることを認め、永遠に真実であり、絶対的に信頼を置くことが出来ると確信すべきでしょう。
 さて、イエス様の権威と力をもった語りかけは、悪霊に取り付かれた人の突然の叫びによってさらに大きな驚きになって広がります。この人が実際にどんな病気にかかっていたのかは分かりません。39節にも「熱をしかりつけられると、熱がひき、彼女はすぐに立ち上がって」とあります。この時代は、病気にかかるということは、汚れた霊の仕業だと考えられていたのです。しかしオカルト話として理解してはいけません。
 悪霊と人間の心との関係がどうなっているのか、わたしたちにはいまだにわかりません。精神の病気であるのか、環境のせいであるのか、あるいは時代の病であるのか、と論じます。しかし、ある日突然人が変わったように、悪い風が吹き込んだように、争いをはじめ、人を憎み、殺し、戦争をし、また時がたつと、「あのときは魔がさした」などという事はどこでもあります。悪の正体を、わたしたちは見極めることができないのです。
 現在は、権威失墜の時代だと言われます。しかし同時に民主的にみんなで決めて行くほうがいいとも言えるでしょう。ただ、変わらないことは、私達にとっては、主イエスことが真の権威者であるということです。私達にとって主イエスの他に真の権威者はいません。
 もし全世界がこの通りにキリストを真の権威者と認め、これに服するならば、真の平和が到来することでしょう。それは中々困難でしょう。しかし、私達は、イエス・キリストを真の権威者と認め、従ってまいりたいと思います。

2006年 2月19(日) 『主の恵みの年』 ルカの福音書4章14節-30節

 荒野での悪魔の試みに勝利されたイエス様はガリラヤでの活動をはじめます。その言葉と働きは、町々の評判となります。
 そしてナザレでのイエス様の行動によって起こった人々の心の動きは、深い感激と激しい憤激というまったく違った感情の動きでした。
 イエス様は「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました」(21)と語られたのです。貧しい者が、とらわれていた者が、打ちひしがれていた者が、解放と自由、癒しと慰めが与えられる、あの預言者の語ったメシアの時、恵みの年がいまここに実現している、と。
 人々は深く納得し、「みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた」とあります。ナザレの人の反応は正常です。
 しかし、その驚きと賛美はただちに正反対の方向に向かいます。同じ22節「この人は、ヨセフの子ではないか。」むしろ、イエスの方が、ナザレの人々の驚嘆や納得の内にあるものを見て、ただちにその思いからご自身を引き離されます。24節「預言者はだれでも、自分の郷里では歓迎されません。」自分のための神、自分の仲間である神、自分に奉仕する神を求めて、自分とは隔絶された本当の神様の働きを見ることが出来ない、仕えることを知らない信仰と生活の本体を見たのでしょう。激しい怒りと殺意、それは最も身近なナザレの人に起こったものでした。
 神様は私達一人一人の罪を贖い、救いに入れることを計画されたのです。私達を本当に解放し、真の喜びを与えることを計画されたのです。そしてそのためにキリストをこの世に遣わされたのです。ですから、このイエス様以外に真の救いはありません。私達は、この神の計画を心から受け入れ、「主の恵みの年」と告げ知らされた者として、私たちを縛るあらゆるものから解放された者として、受け入れないものにならないで、心から喜ぶ者となりたいと思います。

2006年 2月12(日) 『悪魔の試み』 ルカの福音書4章1節-13節

 今週はルカによる福音書の4章に入り、いよいよ福音書の主役であるイエス様の登場となります。そしてそのイエス様が、やはり聖霊の導きによって荒野で40日間引き廻され、乗り越えた直後にこの最後の悪魔からの誘惑を受けたのです。
 今日の聖書の箇所から三つのポイントを上げます。
 まず初めにこの「イエス様こそ私たちの主であるということ」です。人間が罪と弱さのゆえに繰り返し歴史の中で犯しつづける失敗に、イエス様はことごとく勝利されました。悪魔の誘惑、そして罪に勝利されたイエス様だからこそ、人々を罪から解放するキリストであると知る事が出来るのです。
 二つ目のポイントは神様の意思に忠実に従ったイエス様の姿と、私たちが主に頼るということです。イエス様は、悪魔の言葉を退けて、神の意志に忠実に従いました。そして同じ試みは、十字架上においてもなされました。そこに居合わせたある人が「お前が神の子であるなら、十字架から降りてこい」と言いました。しかしイエス様は、人々の考えではなく、神様の意志に忠実に従ったのです。私達も同様に信仰に生きるとき、生涯の重要な時機に試みを経験します。私達にそのような力がないかも知れませんが、私達にはその悪魔の試みに打ち勝ったイエス様が「共にいる」と言われています。私達は常に、自分の力に頼るのでなく、主キリストに頼るものでありたいと思います。
 三つ目のポイントは私たちの生きる糧は、聖霊の導きと感謝と信仰、そしてみことばとであるということです。イエス様も受けられた聖霊の導きに信頼し、苦痛の中で私の為に十字架の道を選び取ってくださったイエス様に感謝し信頼しイエス様のようにみことばによって、聖書のみことばを糧に歩む者とさせていただきましょう。

2006年 2月 5(日) 『あなたはわたしの愛する子』 ルカの福音書3章15節-22節

 バプテスマのヨハネの重要なメッセージのポイントは、自分が授けるバプテスマが最終的なものでなく、やがて聖霊と火で洗礼を授ける方が来る、と伝えることでした。
 ヨハネは人々に及ぼす自分の言葉の力によって、傲慢になっていく人ではありませんでした。神のさばきが迫っていること、悔い改めの必要性を切実に感じ訴え、罪の赦しの洗礼を授けますが、彼自身も救い主を待つ人であったのです。神に仕える人としてヨハネのこの姿勢は私たちにも求められることです。自分自身砕かれたものとして神の前に立つことができる従順な姿勢、それがバプテスマのヨハネを、一人の偉大な預言者にしています。しかし、彼はその短い活動を終えて、ルカの舞台から姿を消すのです。
 そのヨハネの誠実で従順な働きと期待のただなかにイエス様が現れます。イエス様の公生涯は、洗礼、聖霊、天からの声からはじめられます。わたしたちは、ここにイエス様の、深く従順を学ばれる姿に触れることができます。
 聖霊と火でバプテスマを授ける方が、罪を悔い改める水のバプテスマを受け、罪人の一人として赦しを乞い求めるために深く水にくだったその姿です。また、聖霊が鳩のように下り、天から声が聞こえた、とあります。神様に訴え、聖霊をわがものにするというようなことではありませんでした。ヨハネの誠実な従順の姿にまるで呼応したかのようなイエス様の姿であると言えます。
 私達も、このバプテスマのヨハネの従順の姿に、そしてイエス様の従順の姿に学びたいと思います。そのためには、繰り返し自らの罪を悔改め、ますます主に信頼する信仰に導かれ、イエス様に似た者となっていくことが求められます。イエス様ご自身の従順まったく人と同じようになられた従順の姿に学ばされたいと思います。