ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2006年3月]を短くまとめてのせています。

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2006年 3月26(日) 『罪人を招くため』 ルカの福音書5章27節-32節

 今日の箇所は、レビという人の召命の箇所です。レビは取税人だったと記されています。取税人は嫌われ者でした。そのレビにイエス様の方から目を留められたのです。私達に対しても、常に神様の側から働きかけて下さるのです。そして私達は、その神様からの働きかけに応えていかなければならないのではないでしょうか。
 イエス様は、このレビに目を留めて、「わたしについて来なさい」つまり「従っ
てきなさい」と言いました。これは、イエス様が弟子を召命する時の言葉です。イエス様は、ここで当時ユダヤの人々に嫌われていたレビを弟子に選んだのです。そういう人を選んで果たしてイエス様の活動のプラスになるのでしょうか。これは私達の思いからすると実に不思議なことです。中風をわずらい床に寝たまま運ばれて屋根をはいでまで、イエス様の所にやって来た熱心な人たちには「家に帰りなさい」と命じています。ここに神の選びの不思議さがあります。神様は私達を人間的な尺度からは選んでいないのです。
 私達人間は、すべて神の目から見れば、罪人です。私達は例外なく本来神の怒りのもとにある存在なのです。ただその罪を自覚するかどうかだけなのです。イエス様は、その私達罪人を招くためにこの世に来て下さったのです。そして私達は、自分からの努力や、結果や功績のないままに、このイエス様の招きに招かれているのです。イエス様に無関心だったレビにイエス様の方から出会われたように、イエス様はこの罪人なる私達にも出会い、招いて下さっているのです。その際に「全てを捨てないといけません」というのではなく、ただ「私に従ってきなさい」と招かれるのです。
 私達は、この招きに素直に答える者でありたいと思います。そしてこの招きに、繰り返し応え続ける歩みをしようではありませんか。

2006年 3月19(日) 『罪は赦されました』 ルカの福音書5章17節-26節

 イエス様は、最初の頃、ガリラヤ湖の周辺で精力的に伝道されました。そして、彼の周りには常に大勢の人々が押し寄せました。そこに、ひとりの中風をわずらっている寝たきりの人が床に寝かされたまま運ばれてきました。
 そしてイエス様は、天井を壊すという非常識な行動を咎めるのではなく、運ばれて来た病人と運んで来た人々の両方の者たちの信仰をみて、「友よ。あなたの罪は赦されました。」と言われました。肉体的苦痛だけでなく、普段周りの人に厄介をかけているというすまない気持ち、精神的な苦しみをも持ってすごしていたこの病人に優しく語りかけます。
 「あなたの罪はゆるされた」という言葉は、この病人が特に大きな罪を犯していたということではありません。人間は皆、罪人です。ただこれを自覚するかどうかです。特に何もかも順調に行っている時は、人間は中々自分の罪を自覚しません。聖書において、罪を認めるということは、非常に大切なことです。病気や怪我、体の不自由は私達に自分の罪を自覚させてくれるというむしろ恵みの一面もあるのです。
 中風の人が悔い改めた、という記事はありませんが、この人がこんな無理をしてまでイエス様の近くに来たという所に、この人の罪を悔い改める思いをイエス様は見られたのです。
 21節に、律法学者とパリサイ人たちが、このイエス様の罪の赦しの宣言に異議を唱えましたが、彼らの言っていることは、正しいのです。人は人の罪を赦す権威を持っていないからです。しかしイエス様は、人の罪を赦す真の権威者です。
 私達は「罪を赦す権威」のある方から、罪を赦されています。ですから罪を赦された者であることを覚え、恵みと喜びに満たされ、感謝を覚える歩みを送る者でありたいと思います。

2006年 3月12(日) 『お心一つで』 ルカの福音書5章12節-16節

 さて、この全身を「ツァラアト」に犯されている人が主イエスの前に倒れ、伏して主に願っています。この人のイエス様との出会い方、会話は独特です。それは彼の中にある二つの認識があるからです。
 一つ目の認識は、「ツァラアト」を患っている自分について、自分自身ではどうすることもできない無力なものであるということです。この「ツァラアト」は、聖書においてはいやされるものではなく、きよめられるもの、つまり罪やけがれと関係している言葉でもあるのです。
 人間は本来あらゆる面において「自分自身ではどうすることもできない無力なもの」なはずです。しかしその「無力さを覆い隠して神様に頼らない」という罪を持っているのです。自分自身ではどうすることもできない無力なものであるという認識は非常に大切で、大きな意味を持つことであるのです。
 二つ目の認識は、自分の目の前にいるイエス様の病に対する権威と力に対する信頼と確信です。
 そしてこの二つの認識が合わさったとき、イエス様の前にひれ伏し、熱心に求めるという激しい行動に出ているのです。イエス様の前に出て「お心一つで」、つまり「もしあなたがお望みになるなら・・・」と願ったこの人は、信仰の人でした。しかし、その信仰だけではどうにもなりません。イエス様との出会いが必要なのです。
 イエス様はこのように求める人に対して、イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」(13)と語られるのです。
 タイトルにもあげました「お心一つで」は、イエス様と出会い、イエス様に従うものとして、いつも心に、そしてどんな場面でも私たちの手に握っていたい言葉です。イエス様は必ず、「わたしの心だ」といって最善を答えてくださるのですから。「お心一つで」と思いながら応えてくださるイエス様に従って歩んでいきましょう。

2006年 3月 5(日) 『イエス様に従う』 ルカの福音書4章42節-5章11節

 イエス様があのシモン・ペテロを弟子として招く場面です。今日は5章1節からではなくて4章の42節から読んでいただきました。この4章の終わりと5章の最初は、互いに対照的なイエス様に対する人々の姿が示されています。
 1つは、主イエスを探し出して、「わたしたちから離れないでください」といって強く引き留めたカペナウムの群衆の姿。もう1つは、イエス様に「わたしから離れてください、わたしは罪深いものです。」といったシモン・ペテロ姿です。
 権威と力をもって語られる方、悪霊にさえ命じることができるお方が近くにいてくださるのは心強いことです。しかしイエス様は、そのような人々の願いには応えられません。このような群衆からは離れなければならなかったのです。
 対照的にイエス様はシモンに命じて沖に漕ぎ出させ、網を下ろさせると、昼の日中なのに、おびただしい魚が網に入って網が破れるほどだったというのです。そこでシモン・ペテロにあの願いが起こります。「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」ここでペテロのなしたのは、罪の告白でした。そしてイエス様の求めていたものは、実は、これでした。罪の悔い改めの開かれた目をもつ者を、主は必要とし、従うように命じられたのです。
 いつも主のもとに留まっていたい人は、自分たちのために、いつまでもイエス様に留まってくださることを求めるのではなく、イエス様とともに歩き出さなければなりません。神の国の福音を告げる主とともに歩き出さなければならなかったのです。
 私達もイエス様によって、クリスチャンとして召されています。その働きはいろいろ違っていますが、召されている事実は変わりません。私達は、従順にイエス様に従ってまいりましょう。