ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2006年8月]を短くまとめてのせています。

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2006年 8月27(日) 『ただ信じなさい』 ルカ8章49節-56節

 イエス様にヤイロという会堂管理者が会いに来ました。彼が病気の娘のところに来てくれるようにと一生懸命お願いをして、イエス様たちが出掛けようとした時、長血をわずらっている女が登場します。この時のヤイロの気持ちは、記されていませんが、恐らく、こんな女と関わらないで、早く自分の家に急いでほしい、と思ったのではないでしょうか。
 その時、家から使いの者がやって来ました(49)。この使いの者の言葉には、非難の響きがあります。そしてこの事態になって、イエス様の方がまず語ります。「恐れないで、ただ信じなさい。」(50)
 イエス様は、「恐れるな」といいます。この会堂管理者が自分の娘の死に直面して、一番感じたのは愛する者と、再び会うことが出来ない、という恐れです。恐れというのは、不信仰に通じます。神様を信じないというところから恐れが生じます。ですから、「恐れるな」そして「ただ信じなさい」というのです。
 イエス様は、また、私達に対しても「恐れるな」と言っておられるのではないでしょうか。そして、「ただ信じなさい」と。
 人の死や、過ぎ去ってしまった過去のこと。もうどうしようもないことが私たちの周りにはたくさんあります。しかし今日の聖書の箇所を読むと、人が終わりと見ている事態は本当の終わりではありません。終わりでないものを終わりにしてしまうものは不信仰です。期待をし、希望を抱いていい状態を失望や絶望に変えてしまうのも不信仰です。
 信仰を理性的に捉えることは大切なことですが。それだけでもなく、大胆にイエス様に信頼したいと思います。イエス様はわたしたちの思いをはるかに超えたところで働いておられるからです。イエス様が「恐れないで、ただ信じなさい。」とおっしゃったように、私達もすべてのことをゆだねて歩む信仰、ただイエス様を信じ信頼する信仰を持って歩んでまいりましょう。

2006年 8月20(日) 『信仰があなたを直した』 ルカ8章40節-48節

 当時のイスラエルにおいて血の流出は宗教的に汚れている、と考えられていました。慢性の出血であったと思われるこの病気は耐え難いものだったでしょう。全財産を使い果たしまでも社会的な偏見からも、何とかして病気が治りたいという願いが強かったのでしょう。そして望みを捨てませんでした。そして自分が汚れの身でありながら、群衆の中に入って、イエス様の衣に触ったのです。
 力が出て行くのを感じたイエス様の求めに応じて、この女性は「震えながら」名乗り出ます。これはすべてを知り抜いておられるお方の前で、真実を隠し通そうとした罪を恐れたのです。「恐れ」というのは、信仰者の態度です。この女は、恐れを抱き、そしてすべてをイエス様に話したのです。これは全く信仰的態度と言うことが出来るでしょう。イエス様を信じたからこそすべてのことを話すことが出来たのでしょう。イエス様の方から出会いを求められ、それに応じて、イエス様にすべてを委ねるという信仰に変えられたのです。
 彼女は病の辛さだけではなく、 律法的にも人々から排斥され除外され続けてきました。体だけでなく、12年の間殺し、殺され続けてきた心でしたがそれも癒されました。肉体的にも精神的にもそして霊的にもその命の価値を、再び豊かなものへと変えられたのです。
 私達も、純粋な信仰をもっているとは言いがたいと思います。むしろ、信仰と言いながら、自己中心的な思いが強いです。しかし、キリストは、私達のそのような不純な信仰を受け入れて、真の信仰へと、真の救いへと導いて下さるのです。
 私たちは直接肉体を持つイエスと出会うことも触れる事も出来ません。しかし、みことばや讃美を通してイエスに出会い、触れる事が出来ます。そして、その度にイエスは人格的な出会いに招いてくださいます。このことを覚え、常にキリストと出会い続ける者でありたいと思います。

2006年 8月13(日) 『家に帰って』 ルカ8章26節-39節

 イエス様は、ガリラヤ地方とは反対側の東に渡られました。危険な目にあって、対岸に渡りましたが、そこで大勢の人に福音を伝えたのでなく、たった一人の人にでした。しかもその人は、悪霊につかれた人で、他の人からは全く相手にされず社会からも家族からも捨てられた人でした。
 イエス様が湖を船で渡ったのは、この男に会うためでした。イエス様は、一人の人を大事にされます。この男を深く憐れみ、この男の悪霊を追い出されます。これは多くの群衆に福音を説くのにも劣らない重要なことでした。イエス様の奇跡というのは、魔術を行ったからではなくイエス様との人格的な出会いにより、本当の愛、本当の隣人を経験して、病気が癒され、正気にかえっていくという現象なのかもしれません。そのことにより、失われていた本来の人間の姿が回復されたのです。
 この癒された人は、イエスについて行きたいと申し出ました。彼は、今まで自分に冷たくした家族や、社会には帰りたくなかったのでしょう。しかし、イエスは敢えてそこに帰りなさい、と言います。それは、そこにおいて彼のなすべき務めがあるからです。彼は、神様の愛と憐れみによって癒されたのです。そうならば、その神様を他の人にも伝える、ということが、神様の恵みを受けた者の務めです。イエス様を証しする場所は、特定の場所ではありません。それぞれの属している所、それが神を証する場所です。この地方に福音の種が蒔かれるのは、結局、この人によってです。イエス様のゲラサ訪問は数多くのクリスチャンを生み出したのではなくただ一人を救っただけでした。しかし、この一人が神様のみ業を語ることによって福音は芽を出し、根を伸ばして行くことになります。
 私達も、憐れみを受けていることを思い、私達の場でキリストを証していく者でありたいと思います。

2006年 8月 6(日) 『嵐を静める』 ルカ8章22節-25節

 イエス様は舟に乗るとぐっすり眠ってしまわれた、とあります。イエス様は余程疲れていたのかも知れません。こう考えると私達にホッとします。どんなに忙しくても決して疲れたりしないのだ、というのではありません。私達と同じく疲れ、眠くなることもある、ということです。人間の痛みや悲しみをご存知の方なのです。
しかしそれだけではなく、ここでイエス様が眠ってしまわれたのは、神様に対する絶対的な信頼からでもあるでしょう。ここで一行が乗り込んだ舟は、小さな舟です。広さからしても不安定さからも途中で寝るというようなことは普通なら出来なかったはずです。ですから疲れておられた以上に、すべてを神に委ねて、安心しておられたからと考えることが出来るわけです。
 さて、舟が沖に出た時に、突風が吹きおろし、弟子たちの乗った舟は、突然の嵐に、危険になったというのです。ここでイエス様は、風と荒波をしかりつけた、とあります。嵐は、いろいろな形で私達に襲いかかる試練と言ってもいいでしょう。私達に襲い掛かる嵐をしかりつけ、それを止めて下さるのです。「あなたがたの信仰はどこにあるのです。」というのは、叱責の言葉というよりはむしろ、励ましの言葉と言っていいと思います。「しっかりしなさい。私がついているから、恐れてはならない」という励ましの言葉でもあるのです。
 私達は、この世のいろいろな力に動揺させられたり、恐れたりするのでなく、真の支配者であるイエス様に常により頼む者となりたいと思います。信仰という言葉は、元は信頼という意味を持っています。皆さんは、神様を信頼していますか。神様は皆さん一人一人を救い、愛すると聖書は語ります。是非この聖書の言葉を信頼して、共に歩んでまいりましょう。イエス様は嵐を静めてくださるのですから・・・。