ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2006年9月]を短くまとめてのせています。

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2006年 9月17(日) 『自分の十字架を負う』 ルカ9章18節-27節

 20節に「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」というイエス様の問いかけがあります。
キリスト教信仰にとって、根本的な問いであり、今も私達に問いかけられています。イエス様は、最初「群衆はわたしをだれといっているか」と聞きました。これは世間一般の風評こと、いわばうわさです。しかし、大事なのは、自分がどう思うか、自分がどう判断するか、自分がどう信じるか、ということです。イエス様が、私達にとって、私にとって、皆さんにとってどういうお方か、ということが問題なのです。
 23節に、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」とあります。22節の十字架の予告に記されているキリストの苦しみに少しでも与るのが、「自分の十字架を負う」ということです。そして、それは26節にあるように、「イエス様とイエス様の言葉を恥じとしない」ということです。また、「日々」とあります。イエス様を救い主と告白し、イエス様に従う道を歩む歩みは、「日々」新たな思いを持って、新たな告白をし、自分を捨て、自分の十字架を負って従う歩みなのです。
 イエス様はクリスチャンでない方にも、クリスチャンになって長年経つ方にも、今日、「私を誰だと言いますか」「私に従いますか?」「悔改めますか?」と繰り返し尋ね、応答を求めておられます。ですから私たちは今日の自分を見つめ、今日の自分の信仰を告白する必要があるのです。何よりも先に、主ご自身が繰り返し私たちに新しい命を与えてくださっています。この命の主に、繰り返し新しい応答をし、新たな信仰をいただいて歩んでまいりましょう。
 私達に命を与えるために十字架にかかられたイエス様を日々新たに、心から信じ、このイエス様に生涯、全存在をかけて従って行く者となりたいと思います。

2006年 9月10(日) 『いのちのパン』 ルカ9章10節-7節

 4つの福音書に共通して伝えられている奇跡は、この2匹の魚と5つのパンで5千人を養われた記事だけです。
 イエス様は、空腹になっている群衆の食物のことを心配し、自分たちで群衆の食物を何とかしようとされます。ここで弟子たちは「パン5つと魚2匹しかありません」と言っています。これでは、5千人を養うには常識で考えれば当然不可能です。しかし、聖書において神様は私達人間にはとても不可能と思えることでも可能にされます。イエス様は、その食物を祝福して裂き、群衆に配って、全員に十分食べさせました。これは、神様が私達に与える、溢れるばかりの恵みを表しています。神様は、実際に私達に溢れる恵みを与え、私達の生活を支えて下さっているのです。私達は、この神様の恵みを忘れていけません。
 そしてさらに重要なことは、命のパンであるイエス様を信じる者は、飢えることがないということです。食べ物以上の命のパン、イエス様ご自身をもって、私達の命、永遠の命を養って下さるからです。そのことを感謝してしっかりと覚えましょう。
 また、弟子たちはこの世の価値観(つまり5つのパンでは1万人もの人を満足させられない)を捨て、主への信頼が出来ませんでした。しかし、そのことでイエス様が使徒達を見限りません。パンを人々にそれを届ける働きへと送り出されます。私たちも、この使徒達のように繰り返し愚かな間違いを繰り返し、主の期待に応えきれない弱さを持っています。しかし、そんな私たちである事もご存知で、繰り返し期待とキリストの十字架と復活によって示された愛を私たちに与えてくださいます。
 私たちの生活を、そしてまことの命を養ってくださる恵みに加え、繰り返し、私たちの弱さを超えて働いてくださることに心から感謝し、応答する者として、倒れても何度も立ち上がって、歩んで参りましょう。

2006年 9月 3(日) 『遣わされた者』 ルカ9章1節-9節

 この箇所はイエス様が12使徒を派遣する場面です。これは言ってみればイエス様の弟子としての実習であると見ることが出来ます。
「旅のために何も持って行かないようにしなさい」(3)これが、この派遣された使徒達へ課せられたルールでした。具体的に挙げられている「杖」や「パン」は旅をする者にとって最低限の装備でした。それすらも持たない弟子たちでしたが、しかし、このルールを守って旅に出、みな無事に戻ってきました。このルールから分かる一番のメッセージ、そして弟子たちに体験させようとしていたこと、それは私たちに与えて下さるのは神様であるということです。
必要なものを与えて下さるのは神様であるという、その信仰に立って歩む事が出きるかどうかというのが、この最初の派遣を通してイエス様が使徒たちを試したことでした。そしてこのメッセージはもちろん使徒達だけでなく私たちクリスチャン全てに当てはまります。わたしたちもまた、このようにして、主に遣わされた者としての旅を続けていきます。
12人の使徒たちが伝えなければならないこと、果たさなければならない責任は重く、彼らも特別な力を持っているのではありませんでした。また遣わされる世界も私たちの敵が罠を仕掛けているような世界です。必要な言葉、権威、力は主からいただくもの、それ以外ではありません。
真剣に主に求める時、主は必ず応えてくださいます。これは、願いを叶えてくれるという事を必ずしも意味しませんが、自分が考えている以上に自分に良い道を主は備えてくださいます。「一寸先は闇」という言葉がありますが、私たちの歩みの中には嬉しい事もあれば、辛い事もあるでしょう。しかし、どんな時も主が共にいて、私たちの必要を聞いてくださいます。その事に希望をいただき、まっすぐに主に向き合いつつ日々を歩んで行きたいと願っております。今週も、繰り返し、主に委ね、信頼して祈り求めて歩んでまいりましょう。