『自分の十字架を負う』 ルカ9章18節-27節
20節に「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」というイエス様の問いかけがあります。
キリスト教信仰にとって、根本的な問いであり、今も私達に問いかけられています。イエス様は、最初「群衆はわたしをだれといっているか」と聞きました。これは世間一般の風評こと、いわばうわさです。しかし、大事なのは、自分がどう思うか、自分がどう判断するか、自分がどう信じるか、ということです。イエス様が、私達にとって、私にとって、皆さんにとってどういうお方か、ということが問題なのです。
23節に、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」とあります。22節の十字架の予告に記されているキリストの苦しみに少しでも与るのが、「自分の十字架を負う」ということです。そして、それは26節にあるように、「イエス様とイエス様の言葉を恥じとしない」ということです。また、「日々」とあります。イエス様を救い主と告白し、イエス様に従う道を歩む歩みは、「日々」新たな思いを持って、新たな告白をし、自分を捨て、自分の十字架を負って従う歩みなのです。
イエス様はクリスチャンでない方にも、クリスチャンになって長年経つ方にも、今日、「私を誰だと言いますか」「私に従いますか?」「悔改めますか?」と繰り返し尋ね、応答を求めておられます。ですから私たちは今日の自分を見つめ、今日の自分の信仰を告白する必要があるのです。何よりも先に、主ご自身が繰り返し私たちに新しい命を与えてくださっています。この命の主に、繰り返し新しい応答をし、新たな信仰をいただいて歩んでまいりましょう。
私達に命を与えるために十字架にかかられたイエス様を日々新たに、心から信じ、このイエス様に生涯、全存在をかけて従って行く者となりたいと思います。 |