ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2006年10月]を短くまとめてのせています。

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『主に従う道』
ルカ9章57節-62節
2006年10月15(日)

 この箇所は、イエス様に従う3人の弟子たちについての話です。
 第一の人(57,58)は、自分からイエス様の弟子になることを申し出ています。ですから、熱心で自信があり、意志の強い、信念のしっかりした人のようです。しかし、意志や熱心さなどだけで、弟子になることは出来ない、ということをイエス様は言っているのです。
 第二の人(59,60)は、弟子を志願したのではなく、イエス様の方から呼びかけられました。しかし、「まず、父を葬りに行かせてください」と、この世的な事情のために、神様の招きを断ることということの代表的な例として表わされています。父を葬るという極端な例を引き合いに出し究極の選択として、たとえ重大な事情であっても、神様に招かれているという事、また神の国に招く働きの方が大切、というメッセージです。
 第三の人(61,62)は、イエス様に従っていく途上においていろいろな迷いがある、ということを言っているのです。これまた非常に極端な例ですが、しかし信仰生活を続ける上で、何かと断絶しなければならない、ということもあります。一旦イエス様に従うことを決めて、その歩みを始めた者は、後ろを振り返るのはふさわしくない、とイエス様は言います。
 さて、ここにイエス様に従う3人の人は完全な信仰者ではありません。しかしイエス様は拒絶せず弱い不完全な者を、受け入れて下さっているのではないでしょうか。私達も、弱い不完全な者です。しかし聖書は、自分の弱さを認め、その弱い私達を受け入れて下さるイエス様に従うように、と言っています。そしてイエス様は、従う決意をした私達が迷うことがあっても、従い続けることができるようにと、執り成して下さっているのです。私達も、そのイエス様に答えて、失敗しても何度でもイエス様の元に帰り、自らの弱さと向き合いそれを認め、悔い改め、生涯イエス様に従い続ける者でありましょう。

『エルサレムへ』
ルカ9章51節-56節
2006年10月 8(日)

 イエス様は活動の初期の段階からサマリヤに出入りをしており、彼らとも良い関係を築こうとしていました。民族間のしがらみを越えて語りかけ、関わってくださったイエス様でしたが、エルサレムに向けて進んでおられたイエス様をサマリヤ人は受け入れませんでした。
これに対してイエス様の弟子達の対応も、「天から火で焼き滅ぼす」と、過激な反応をしています。この「天からの火」と言うのはU列王記1章の預言者エリヤの有名な箇所と関連していますが、それは、弟子達がイエス様をエリヤ的なメシア理解をしていたということを表しています。
十字架についてすべての人の罪をあがなうイエス様ではなく、エルサレム神殿を中心とするユダヤ教の救い主、ローマの圧制と、仇敵サマリヤを滅ぼす新しい王、エリヤ同様の偉大な預言者としてしか理解できませんでした。サマリヤの人々同様、彼らもまた無理解だったのです。
これに対してイエス様は戒められます。イエス様は弟子達に対して、互いに受け入れること教えてこられました。そして時を同じくして51節にあるようにイエス様はエルサレムに向かう決意を固められました。それはあの十字架の受難を決意された事を意味しています。ユダヤのためだけではなく、神様が造られた全てのものの為に歩まれる決意をなさったのです。そこにはサマリヤの人々も、弟子たちも、そして、私達も含んでいるのです。イエス様は孤独の中で、サマリヤの人達からも拒否され、弟子達にも理解されずに、しかし、人類すべての態度を受け入れ、その罪の身代わりとしてたった一人でこの十字架を背負ってくださいました。そのイエス様は繰り返し「わたしを受け入れなさい。わたしを信じなさい。わたしに従ってきなさい。」と招いておられます。イエス様の教えを聖書から日々いただき、耳を傾けながら、イエスさまを信じ、従って、共に歩んで行きましょう。

『無力、無理解、高慢、狭量』
ルカ9章37節-50節
2006年10月 1(日)

 この箇所はイエスさまの言葉や歩み、それをめぐる人々を伝えます。今日、読んでいただいた4つのちいさなエピソードが記されています。一見、脈絡のない話しが続くような感じもしますが、これらは皆、私たちはどういうものであるのか、そのわたしたちはどのようにイエス様に従うべきか、ということと関わりを持っています。
これらの話しを通じて見えてくるのは、弟子たちの姿勢とイエスさまの言葉とのコントラストです。
 @ 悪霊に憑かれた子どもに対して何もできない弟子たちと不信とゆがんだ時代を嘆くイエスさま。
 (無力)
 A 人の子は多くの人の手に引き渡されると予告するイエスさまに対して何もわからない弟子たち。
 (無理解)
 B 誰が自分たちの中で一番偉いかと論じる弟子たちに対して、最も小さい者が最も偉いと語るイエス様。
 (高慢)
 C イエス様の名で悪霊を追い出している者を仲間ではないのでやめさせた弟子と、「反対しない者は味方」とおっしゃるイエス様。
 (狭量)
 41節でイエス様は「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。」とおっしゃっています。確かに私たちの世は曲がった、ゆがんだ、罪の性質を色濃く現しています。
 私たちは「無力、無理解、高慢、狭量」という性質を持っているからです。しかし、このことをまず認めなければ前へは進めません。そして、イエス様の力に満たされ、イエス様の知恵に満たされ、イエス様の名のゆえに相手を自分よりもすぐれたものと考え、イエス様の名のゆえに、互いを受け入れ合い、一つとなっていきたいと思います。「無力、無理解、高慢、狭量」である自分を知り、認め、イエス様に変えていただく者となってまいりましょう。私たちの教会はそういう群れ目指していきましょう。そのためにも互いに祈り合い、変えて下さる導きを求めつつ、今週も歩んでまいりましょう。