ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2006年11月]を短くまとめてのせています。

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『どうしても必要なこと』
ルカ10章38節-42節
2006年11月26(日)

 マルタとマリヤという姉妹が登場します。この二人は非常に性格の異なる姉妹であったようです。マルタは、一家の主人であり、責任感も強く、よく気がつき、よく働くしっかり者だった。それに比べて、妹のマリヤは、のんびりしていて、余り気がつかず、人がどう思うかということを余り気にしない人だった、というような性格分析もそれほど間違ってはいないでしょう。マルタがイエス様の接待で忙しく立ち働いていたのに、マリヤは何もせず、イエス様の足もとに座って、イエス様の話をじっと聞いていた、というのです。そこで忙しく立ち働いていたマルタは、イエス様に愚痴をこぼしたのです。しかし、マルタの思惑に反して、イエス様はマリヤのことを評価しているのです。
 「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。」とイエス様は言います。その「一つ」とは「主の足もとにすわって、みことばに聞き入る」ということでした。40節で「もてなし」、口語訳では「接待」と訳されている語は、「奉仕する」という意味の語です。主の言葉を聞くことが、最も必要なよい奉仕ということになります。直前の「良きサマリヤ人のたとえ」で隣人への愛を教えられたことに意味があると思います。隣人愛の実践には、愛の源なる主を愛し、御言葉に耳を傾けることが「どうしても必要なこと」となるからです。ご一緒に主のみ言葉を聞きながら歩んでまいりましょう。
 そして主に仕え、奉仕をすることは、マルタのような「気が落ち着か」ない姿勢ではなく喜びから出ることが大切です。礼拝も、みことばを読むことも、やはり喜びをもってすることがとても大切です。「どうしても必要なこと」と言われているのは、「喜びをもって主に仕える」ということでもあります。私達も、喜びをもって主に仕えていく者でありたいと思います。

『私の隣人』
ルカ10章25節-37節
2006年11月19(日)

 一人の律法の専門家が登場し「何をしたら永遠のいのちが受けられるか」と人生の根本問題についてイエス様に問います。イエス様はご自分では答えず、相手に答えさせますが、真っ当な正しい答えでした。ただし、「隣人」については、解釈が異なっていたのです。
 当時のユダヤ教においても、隣人というのは、自分たちの仲間をさしていて、自分の敵と思われる人を憎んだりすることはかまわない、と考えられていたのです。そこで、隣人とはだれか、ということを示そうとしてイエス様が語られたのが、この有名な「良きサマリア人」の譬です。
 このサマリア人というのは、当時のユダヤ人とは犬猿の仲でした。ところが彼は仲が悪くても、半殺しにされて苦しんでいる人を見て「かわいそうに思い」親切に介抱し、また宿屋に連れて行き、デナリ二つを支払った、というのです。まさに、敵をも愛せというイエス様の教え通りの人、いや彼は、実はイエス様を表しているのかも知れません。
私達がイエス様を愛したのではないにも関わらず、イエス様は私達を愛し慈しんでくださっています。このイエス様の無償の愛を私達は受けていることをまず覚えたいと思います。そしてそのイエス様歩まれたように、またイエス様が私たちに求めておられるように、多くの人を「隣人」としたいと思います。しかし愛は、言うのは簡単ですが、行うのは難しいものです。人間は自己中心だからです。
 どのようにしたら隣人を愛せるのでしょう。まずは相手を愛することが出来るように願い祈ることです。自分の力では愛することが出来なくても、イエス様はそれをさせてくださると信じて、愛するという決断をするということです。そして相手のために祈る、相手の祝福を祈るということです。たとえ自分が憎む相手でも、反対に相手が自分を憎んでいるとしても、愛し、受け入れ、その人のために祈ることができるように神様に導いていただきましょう。

『名が天に書きしるされていること』
ルカ10章13節-24節
2006年11月12(日)

 イエス様は、コラジン、ベツサイダ、カペナウムを代表とするたくさんの奇蹟を見ながら悔い改めなかったガリラヤの町々を責め嘆き悲しんでいます。イエス様ご自身の宣教でさえ、そのような結果だったのです。そのような町を後に残して、主は十字架に向かって進んで行かれ、何の変革も起こすことのないような町に向かって、弟子たちを宣教に遣わされます。もちろん、相手によって、反応の大きさによって真理を変えるのではなく派遣した方の言葉を忠実に伝えること「神の国は近づいた」と伝えることを弟子たちに求めています。イエス様のメッセージを忠実に伝えるという姿勢が私たちにも求められているのではないでしょうか。
 さて、帰って来た弟子たちは実りが少なかったわけではありませんでした。イエス様と共に来る神の国を告げ知らせるものは、なにかの手応えを感じて帰ってきています。派遣された弟子たちがみな喜びながら帰ってくるのです。この最後にある「名が天に書きしるされていること」とはモーセの時代から伝統的に考えられてきた神様に救われるものの名が記されたリストのことを示しています。つまり、このリストに名が記されると言うことは、神様による救いに与ることが約束されたことを意味します。つまりこのイエス様からの派遣に従い、伝道に出て行き、その言葉に従って帰ってきたものを神様は救われることを約束しておられるのです。
 そしてこの弟子達のように神様によって選ばれ招かれた私達も、神様の言葉に従い派遣され、そして神様の元に戻ってくる時に救いが約束されているのです。もちろん不安や恐れがあるかもしれません。しかし、それでもなおイエス様の守りを信じ従う者を、主は必ず守り導いてくださいます。この招きを信じて応答し、共に歩んでまいりましょう。うまくいかない時も、結果を見るのではなく、どんな時も主に従う信仰を忘れずに歩んでまいりましょう。

『神の国が近づいた』
ルカ10章1節-12節
2006年11月 5(日)

 10章の始めのエピソードは、9章の始めにあるものと同じ、イエス様による弟子の派遣が記されています。ルカの福音書だけが二度にわたる弟子たち宣教の派遣を記しています。
 1節に「70人を遣わした」と出てきます。9章では12使徒の派遣でしたが、12人はイスラエル12部族を象徴していて同じイスラエル民族への伝道を表していると考えられます。そして70人は創世記10章に羅列してあるイスラエル以外の民族、つまり異邦の民族の数と対応していますので異邦人伝道を象徴していると解釈されます。ここで重要なのは、すでに異邦人伝道のことが示されている、世界宣教のことを暗示していると見ることができるのです。
 9節と11節に「神の国が、あなたがたに近づいた」と語るよう教えています。今回の派遣に際し、イエス様が弟子達に最も語らせたいと願った事でしょう。そして受け入れたものにも、受け入れなかったものにも同じ「神の国は近づいた」というメッセージです。受け入れたものにも、受け入れなかったものにも神の国は近づいているのです。神の国とは、神によって直接統治され、神によって与えられる永遠の命により、永遠の救いがもたらされた真の平和がある国です。この神の国が全ての人々に近づいたのです。そして、今も私達の近くに来ています。私達人間の努力ではなく、一方的に神の愛によって我々に近づいているのです。そしてこの神の国は、十字架で死に、しかし復活されて天に戻られたキリストが再び地上に戻られる時完成する、そう聖書を通して約束されています。そのメッセージを聞いた私たちは、受け入れるにしても、そのメッセージを伝えるにしてもイエス様に従うために一歩を踏み出す、これが我々に求められている事なのではないでしょうか。神の国を待ち望みつつ、求め祈りつつ、今週も歩んでまいりましょう。