ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2006年12月]を短くまとめてのせています。

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『主の祈り』
ルカ11章1節-4節
2006年12月31(日)

 イエス様はここで、いわゆる「主の祈り」を教えられました。まず、「父よ」という呼びかけがあります。祈りというのは、独り言ではなく、神様との対話です。ですから、対話の相手である神様にまず呼びかけるのです。そして「父よ」というのは、非常に親しい、親密な間柄の呼びかけです。神様は、どこか遠くにあって、非常にいかめしい存在というのでなく、すぐ近くで父として存在するお方なのです。そしてこれは、非常に信頼する方への呼びかけです。この私を受け入れ、この私の願いを聞き入れて下さる、そういった信頼をもって呼びかけるのです。
 さて、次に願いが来ます。これは前半が神様についての祈り、後半が自分についての祈りになっています。このまず神様について祈る、ということは、主の祈りの特徴です。聖書の神様は、生ける人格の神様であり、私達の真の支配者であるので、その神様がたたえられることを祈るのです。まず礼拝することから始めるということが、私達の祈りです。
 さて、主の祈の後半は、私達の願いです。イエス様は、私達の生活に必要なものを神に求めることを許してくださる、いや、もっと積極的に、求めなさい、と教えておられるのです。もちろん、私達が悩み事をもった場合、それを神様に訴えることも許されます。ここで注目したいのは、「私たちの」という言葉です。私たちの祈りはしばしば利己的なものになってしまいます。身近に必要を覚えている方たちのために、あの方のあの必要に、と祈ることも教えられているのではないでしょうか。特に「私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。」という部分が、祈れないという方がいらっしゃいますがその方のためにも、「この方の罪をも赦し、この方が人を赦せるようになりますように」とも祈るのです。
 イエス様の教えてくださった祈りの言葉ではなく本質の中に祈るものとなりたいと思います。また、その祈りが神様に届いている、必ず聞かれると信じて、さらに祈り求めてまいりましょう。

『救い主の誕生』
ルカ2章1節-21節
2006年12月24(日)

 イエス様の誕生の記事ですがルカによって克明に記されています。その中でも「飼葉おけ」に幼な子のイエス様が寝かされていると3回(2:7,12,16)出てきます。飼葉おけは家畜のエサ入れで、決して美しい衛生的なものではありません。それは私たちの心の中のようです。だれもが人には言えない、隠しておきたい、見せたくないもの、自分でも面と向かえないような心の弱さ、汚れを持っています。そのような中にイエス様は、生まれてくださったのです。教会に来ている私たちは、罪人の集まりです。様々な弱さ、欠点を持ち、悩みや苦しみ、困難を抱えています。しかし自分が正しいと思い込み、そのような価値観のみで人を推し量りもします。このような問題だらけの私たちの中に、主は救い主として生まれてくださり、共にいてくださるのです。
 神様であるお方がなぜ、そこまでして私たちを救おうとされたのでしょうか。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)とありますように、神様が私たちを愛して下さったからです。ひとり子をこの世に送り、私たちの身代わりとして十字架にかけすべての罪を処理してくださいました。しかも死を打ち破って復活され、信じる者がすべて永遠の命を得るように、救いの業を完成してくださいました。ここに愛があるのです。
 イエス様の誕生から死、復活、昇天にいたるまで、すべて神の愛に貫かれているのです。 このクリスマスはその救い主イエス様が生まれた事を祝うのです。主の恵みに心から感謝し、クリスマスを祝い、共に喜び合いましょう。一人でも多くの人と、本当の喜びを分かち合い、笑顔でクリスマスを過ごしましょう。

『東方の博士たち』
マタイ2章1節-8節
2006年12月17(日)

 クリスマスのエピソードは色々ありますが、ここはイエス様の誕生に駆けつける東方の博士たちの場面です。彼らは、異邦人であり、違う宗教の代表的知識人でした。彼らが見て導かれたものは星でした。当たり前の事ですが、星とは天に見えます。そして天とは、神様の住まいがあると考えられていました。つまりこの星は、神様を見上げるものにしるしとして与えられたものと考えることが出来ます。むしろそのように考える方が自然なのではないでしょうか。
 しかし、その星を見、その星の導きに従った者はメシヤを待ち望んだイスラエルの民ではなく、異邦人で異教徒の知識人、占星学者であったのです。反対にイスラエルの民も、ヘロデ王と同様その知らせを聞いて不安を抱き動揺をします。喜ばなかったのです。彼らは自分達の先祖から待ち望んだメシヤより、いまこの瞬間の自分のことを優先したのです。
 「上を向いて歩こう」という歌が今なお歌い継がれていますよね。それは素晴らしい歌だからであるのと同時に、私たち人間の本質を現しているからかもしれません。実は聖書で「人間」と訳されている言葉は、ギリシャ語でアンスローポスという言葉ですが「顔を上に向けて」という意味の合成語だと言われています。
 本来的には神様を見上げて生きる生き方であった者が罪の故に、いつも下を向いて生きるような人間になってしまったのです。
私たちは本当に意味においてのアンスローポス=「人間」に回復される必要があると思います。上を見上げ続けて、神様を見上げて歩まなければ神の国に入ることが出来ないのです。
 このアドベントの時期、キリストの誕生を待ち望む時期、皆さんはどこを向いていますか。不安の中、痛みの中でうつむいてはいませんか。
 まもなく、クリスマスを向かえます。ぜひその時は、神を見上げ、喜びの中で共に祝いたいと願っています。

『受胎告知』
ルカ1章26節-38節
2006年12月10(日)

 アドベント第2週を迎えました。新約聖書のイエス様の母マリヤが天使から受けた告知・・・これは芸術の世界でもよく描かれてきた、わゆる「受胎告知」の場面です。神様は私たちには理解できないかたちで恵みを届けて下さることがあります。そしてそれを受ける私たちは、時としてただただ混乱するのです。あの最初の告知においてのマリヤがそうでした。
 私たちもマリヤのような経験することがあります。たとえば、具体的に神様から示されたことが自分も祈っていたことであったとしても、それが自分の願いと食い違う時に、拒否してしまうようなことです。マリヤもイスラエルの民ですから、メシアが現れ自分達を救い出してくれることを願い、祈り、待ち望んでいたはずです。しかし、まさかその母を処女の自分が担うなどとは想像もしなかったのでしょう。
 しかし、そのような頑なさも聖霊によって砕かれていくのです。人の常識、理解に縛られていても、聖霊に導きによって「神にとって不可能なことは一つも」ないことを信じ受け容れる者へと変えていただけるのです。このマリヤがそうでした。
 このアドベントの時に、信仰とは「祈りが聞かれると信じ、求めつづける事」であると同時に、「道を示してくださる主を信じ、与えられた現実を受け容れる」と言うことを覚えたいと思います。もちろん聖霊なる神様の導きによらなければ、私たち人間には出来ませんが、聖霊を受け容れる時に変えられることもマリヤによって聖書は示して下さっているのです。
 この出来事をマリヤが受け容れることで、イエス様が生まれました。それがクリスマスです。今年のクリスマスもこのことを覚え、私たちの希望を見出し、共に喜びを分かち合いたいと願っております。

『平和の君』
イザヤ書11章1節-10節
2006年12月 3(日)

 アドベント(待降節)に入りましたので、今週よりクリスマスにまつわる聖書のみことばをご一緒に読んでいきたいと思います。
 1節にある「エッサイの根株から」のエッサイとはダビデ王の父の名です。そして、その子孫にここで預言される者があらわれると言うことを言いあらわしています。4節にはこの方が、神様の性格でもある正義と公平をもって歩まれ、神様の完全なる価値観に生きる者であるとも書かれています。
 6節からはそのメシアによってもたらされる世界について描かれています。ここに描かれる組み合せは、食べるものと食べられるもの、命を奪うものと奪われるものであり、それらが共存するとあります。つまり、全ての争いが無くなり、命の奪い合いが無くなり、お互いがお互いである事を享受し合う関係が築かれる、と語っているのです。また9節を見るとその世界はメシアによって神様を知る知識が、地上の全てにもたらされると預言されているのです。これがキリストによってもたらされる平和と希望の約束なのです。神様にとっての平和とは、人間だけのものにとどまらず、被造物全体が互いを赦し認め合う完全な平和なのです。そのメシアは 2000年前に来られました。十字架と復活によって罪の赦しと救いを与えて下さった後、この世界にとどまらずに天へと戻られました。ですから、平和はまだ完成していません。しかし、もう一度この世に来る事も約束されています。
 そして、その時こそ神様の平和が完成するのです。ここに、いま待ち望む私たちの希望があるのです。世の中は混沌としています。戦争、テロ、貧困・・・身の回りの世界でも憎しみ、痛み、そして罪・・・。
 今年も救い主の誕生を祝うクリスマスを迎えようとしています。この時期に、キリストの再臨によって完成する平和をも待ち望む時として歩んで参りましょう。