ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2007年1月]を短くまとめてのせています。

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『この時代のしるし』
ルカ書11章29節-32節
2007年 1月28(日)

 イエス様の時代、エリヤのような人物が現れて、不思議な業を行い、苦しんでいるユダヤの民を救う、という期待がありました。そこでイエス様もエリヤのように天から火でも呼び寄せることができるのではないか、という期待をもったのでした。
私達も、イエス様を信じることによって、私達は救いに入れられている、と言われますが、それが何か目に見える形で欲しいと思うときがあります。それが人間の弱さかも知れません。
 さて、ここでイエス様が「ヨナのしるし」と言っているのは、ニネベの人々が何か具体的な裁きのしるしを見たからではなく、ただヨナの言葉を聞いて信じたということです。28節に「いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」とあるように「南の女王」の例も、ソロモンの知恵、神の知恵の素晴らしさ、真実のものを求める求めを評価しています。ヨナにまさるしるし、ソロモンにまさるしるしが示されているのに当時の人々は立ち返って悔い改めることも、神を讃美することもしなかったのです。
 今の私達の時代にイエス様が実際にこの世におられ、その言葉を直接聞き、行動に直に触れることができる訳ではありません。しかしながら私達には、イエス様の救いの業を証する聖書があります。この聖書の御言が確実なので、何も目に見えるような不思議な事が起こる必要はないのです。
 「キリスト・イエス様は、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。Tテモテ1:15
 私達は、この聖書の証言を、そのまま受け入れましょう。このみことばの大いなる恵みに与かっていることを覚え、感謝をささげたいと思います。

『幸いな人たち』
ルカ書11章27節-28節
2007年 1月21(日)

この箇所で「幸い」と訳されている語は、口語訳では「恵み」と訳されており、この「恵み」とは私たち人間が想像するような幸福状態というよりも、究極的な意味である永遠の命による救いの事を指しています。
 27節に登場する女性が誰かは分かりませんが、イエス様の母こそ「幸いな人」だと語りますが、次の28節ではイエス様御自身がそれを否定し、「いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです」と語られています。これと少し似たようなやりとりがルカ8:19-21にあります。そこには「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行なう人たちです。」と語られており、そこではイエス様にとって大切なのは家族や親族といった肉的なつながりではなく、神の言葉による結びつきであると教えておられるのです。そして今日の箇所でも、「幸い」、即ち永遠の命の救いとは、イエスとの肉的なきずなや交わりによってもたらされるのではなく、神の言葉、み言葉による結びつきによってもたらされる事を語っておられるのです。
 ではその「神のことばを聞いてそれを守る」とはどういう事でしょうか。「守る」と訳されている語には、番人、番兵という言葉と同じ語源で、「見張る」或いは「監視する」と言う意味も持っています。私たちの幸いは繰り返し自分を見つめ、自分の聖書の読み方、みことばの受け方を点検しながら聞く必要があると言えます。
 そして、そこに気を付けながらみことばをそのまま受け取る中に「幸い」があり「恵み」である永遠の命へとつながっている、とイエス様は聖書を通して今なお私達に語っておられます。聖書にある十字架での身代わりの死と復活を神の言葉として受け入れますか。それを信じ受け入れる時、永遠の命による救いが約束されるのです。
 是非、この救いにあずかりましょう。共に復活のキリストを信じ受け入れ、永遠の命という望みの中に歩み続けましょう。

『神の指によって』
ルカ書11章14節-26節
2007年 1月14(日)

 イエス様の奇跡である癒しの出来事が述べられています。しかしここでは単純にいやされたという事実だけが語られるのです。つまり、どのように癒されたのか、どのような者が癒しの恩恵に与ったのか、ということではなく、ポイントはこの奇蹟に対する人々の対照的な反応にあるのです。受け止め方は様々でした。
 イエス様がなさった素晴らしい出来事が、ある人々にとっては、悪霊のかしらの働きに見えます。わたしたちは、まさにこのような世界に生きています。「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません。」(Tコリ12:3)というパウロの言葉を思い起こします。見えないものを見るためには、主の霊によって新しく生まれるのでなければなりません。
 イエス様がここで悪霊の家を奪うイエス様のたとえをもって語られたことは、見えない世界においても闘いの世界であることを教えているようです。一人の癒しという目に見える行為は、神の指をもって悪霊を追い出しているという、目に見えないところで展開している大きな戦いの一つのしるしです。そして、この小さな出来事が、大きな「神の国はあなたがたに来ている」という出来事をあらわしているといいます。
 み言葉によって示される主の働きをわたしたちはどのように見ているでしょう。
 わたしたちが今ここで礼拝していること自体も、見えない悪霊の支配する世界との闘いの現実の中で、神の指の働きが実現していることと見ることが出来るなら、神様によって新しく生まれた者です。イエス様が、神の指によってなさったこと、今もなさっていることをしっかりと発見し見つめつつ、感謝して受け止め、「神の国は私たちに来ている」というそのイエス様の言葉を自分のものとし、みことばの中で歩み続けてまいりましょう。

『求めなさい』
ルカ書11章5節-13節
2007年 1月 7(日)

  イエス様は、「主の祈り」を教えた直後にこの譬え話をされています。私達は、祈りというものを、大切に考えているでしょうか。祈っても、それが即かなえられるとは限りませんし、祈っても祈らなくても事態は何も変わらないのではないか、という冷めた思いを持っていないでしょうか。そんなに熱心に求めなくても、多くのものは満たされているからかもしれません。求めてもかなわないものはかなわない、と簡単に諦めてしまっているのかも知れません。熱心に祈ってもかなえられない、祈りは気休めだ、と思ってしまっていないでしょうか。
 しかし主の祈りも抽象的な祈りではなく、また、心から、真剣に執拗に祈る祈りは必ず聞かれるというのです。この譬えでイエス様が言わんとすることは、9節「求めなさい。そうすれば与えられます。」や10節で「求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」とおっしゃっています。
 また神様は、私達人間の親と同様に私達の願う以上に良い物(聖霊)を下さらないはずはない、と言うのです。
 わたしたちの祈りは、何か飾りもののようなものではなく、生活の中での緊急の必要です。緊急と言うと救急車を呼ぶような緊急事態を思い浮かべるかもしれませんが、むしろもっと日常的な緊急性と言いましょうか、それは経済的なことであっても、感情的、精神的なもの、人間関係的なものであっても、かまいません。もしそうなら、祈りは日常的なものになるのです。
 そのための「主の祈り」でもいいですし、心から湧き出てくる自由な祈りの言葉でもいいのです。
 しかし祈りましょう。そして神様に信頼して、心から求めましょう。祈り求める教会となってまいりましょう。