ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2007年2月]を短くまとめてのせています。

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『責任を問われる』
ルカ書11章45節-54節
2007年 2月25日(日)

 イエス様から鋭く批判されているのを聞いていたひとりの律法の専門家が、イエス様に詰め寄りました。
律法をいろいろな事情から守れない人もいるでしょう。続くイエス様の批判はその律法を守れないで引け目を感じている人々、律法の重荷にあえいでいる人々をただ非難し、裁くだけで、その重荷を一緒に担ってあげようとしていないということです。
 さらにイエス様は「預言者たちの墓を建てている」と批判します。しかしそれにしてもどうして、預言者の碑を建てることが、「預言者を殺した者たちの子孫だと、自分で証言してい」る事になるのでしょうか。過去の罪を自分にも当てはまると言って悔い改めるのではなく、自分たちはあの愚かな先祖たちとは違うといって、威張って自分たちの正しさを主張しようとしていることが問題なのです。
 パリサイ人たちは、自分たちの先祖の犯した罪を考える時に、自分たちも同じあやまちを犯してしまうかも知れないと考えたのではなく、自分たちならばそうはしなかった、というおごり高ぶり、自己正当化、それが彼らにある限り、かつて預言者たちを殺した先祖たちと同じ過ちを犯すことになるのです。そして事実として同じ過ちを犯そうとして、今イエス様を殺しにかかっているのです。
 続けてイエス様は「預言者の血の責任を、この時代が問われる」といいます。これは私たちにも当てはめて言うことができます。自分たちの先祖たちが犯した過去の罪、人類がその最初から持っている罪を反省し、預言者たちを殺した先祖たちの、あの血が今自分たちの中にも流れてきている、そのことを十分自覚するということが大切です。私たちは、人間の罪の歴史を覚え、自分たちもその血を受け継ぐ者として、同じ過ちを犯す可能性を十分知り、神様に赦して頂き、神様に従い、神様に応答していく責任が問われていることを覚えつつ歩んでまいりましょう。

2007年 2月18日(日)

※)田原寿子宣教師による特別メッセージ。

『内側にあるもの』
ルカ書11章37節-44節
2007年 2月11日(日)

 パリサイ派はユダヤヘレニズム化に抵抗するために出来た信仰運動で、ユダヤの社会に大きな影響力を持っていました。神の民イスラエルを「祭司の王国、聖なる国民」となるように自ら励み、また国民を指導したのです。パリサイ派になる資格は二つの掟の実行にありました。食事の前に手を洗うことと、収穫の十分の一を捧げることでした。手を洗うことは、衛生的というよりも宗教的な意味合いをもっていました。これを日常生活の中で、祭司でない民衆が行うことに意義があると考え、実行させようとして活動をしていたグループであるという側面もあります。
 ここに出てくるパリサイ人は、手を洗わないことに驚きを感じます。そしてイエス様には、このパリサイ人の心が分かったのです。ここでイエス様は、内面と外面ということを問題にされています。あるいは真心と形式と言ってもいいでしょう。パリサイ人は、外面や形式を整えるが、そこには真心がない、ということです。
 これは、旧約聖書の時代から問題にされたことです。ホセア書でも「全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。」(6:6)とあります。神に多くの犠牲をささげるよりも、大切なのは神を知ることだと言います。この「知る」というのは、ヘブル語ではずっと深い関係を意味します。非常に内面的なのです。ですから、神を知るという場合、その神を愛するとか、その神に従うということまで含まれるのです。今日の所でも、手を洗うという外面的なことが重要なのではなく、イエス様との関係、イエス様の言葉に心から耳を傾け、イエス様に真心から接するという内面的なことが重要なのです。
 私達も常に、イエス様を真心から信じ、従って日々の歩みを歩む者でありたいと思います。また、真心から神を愛し人を愛するために、神様により頼んで日々の歩みを歩む者でありたいと思います。「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(Tサムエル16:7)。

『あなたのうちの光』
ルカ書11章33節-41節
2007年 2月 4日(日)

 これはだれにでも分かるごく単純な譬えです。光とは、キリストであり、イエス様が私達に与えて下さった福音です。家の中ではともし火を一番中心に置くべきなのと同じく、私達の生活においても一番中心は、まことの光なるイエス様であり、福音です。
 この「あなたのうちの光」というのが私達にとって、最も大切なものです。これは物理的な光ではもちろんないですし、また、その人の性格が明るいとか、楽観的でポジティブであるとかそういう意味ではありません。また、一見私たちは、「内なる光」を自分の中にある清さや正しさ、頭がいいとか、崇高な道徳精神などとあるいは考えてしまいますがそういうことでもありません。私達にとって、このイエス様は十字架と復活のキリストであり、光そのものとして私たちの内側に入ってくださる事を聖書によって知らされています。
 いかに言葉を尽くして聖書のみことばを語り、キリストの救いを語っても、語るもののうちに光が輝いていなければ、誰がその言葉を喜んで受けるでしょうか。
教会の交わりに仲の良さ、居心地の良さを求める我々がいます。決してそれは間違いではないでしょう。しかし、それだけなら何も教会でなくとも良い筈です。
 教会でなくては出来ない事、それはイエス様よりいただいた恵み、喜びです。
 みなさんは自分の内側に光を持っていますか。それはイエス様の光、福音の光ですか。この光は、私たちの想像を遥に超えた強い、しかし暖かい光を放つはずです。来年度の目標聖句は「起きよ、光を放て」です。まずはもう一度、新たにイエス様の光をいただき、目には見えないしかし確かな救いと永遠の命の約束という喜びと希望をいただきましょう。そしてその喜びを証しする者として、共に歩んで行きたいと願っております。常に、イエス様の福音に照らされ、またイエス様の福音に真心から従って日々の歩みを歩む者でありたいと思います。