ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2007年3月]を短くまとめてのせています。

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『用意していなさい』
ルカ書12章35節-48節
2007年 3月25日(日)

 イエス様は弟子達に対して「心配せず神に信頼せよ」と言われました。しかしすぐ続けて「用心していなさい」口語訳や新共同訳では「用意していなさい」というのです。信仰生活というのは、決して怠惰なのんびりとした生活ではなく、緊張感をもった生活、どんな時にも目を覚ましていなくてはならない生活だとおっしゃったのです。
 私達は、普段、将来に対して備えということをします。確かに生活のための備えというのは大切でしょう。しかし、最も大切な備えが分かっていないのかもしれません。この世の備えよりも、優先すべき備えというものがあるのです。それは、終わりの日への備え、死への備え、真の命を得るための備えです。
 聖書は、イエス様の再臨と終末について教えています。神様が始められたから、神が終わらせる時がくるといいます。その時にはイエス様が再びこの地上に来られるという再臨が伴います。ただし、それがいつなのか、ということは私達人間には分からないのです。
 それでは私たちが再臨、そして終末に備えるにはどのような生き方をしなくてはならないのでしょうか。今日の箇所でイエス様が教えておられるのは「主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸をあけようと、その帰りを待ち受けている人」になれということです。
 終末の時は、この世界の破滅の時というだけでなく、神様が私たちの主人として栄光をあらわし治めてくださるときでもあるのです。神様の愛と憐れみを知っている私たちは、恐れることなく、喜んですぐ主人を迎えるために戸をあけにいくことが求められているのです。
 みなさんは、イエス様が教えられている様に、「用意して」いますか。私は是非みなさんと、その時を共に待ち望みたいと願います。神の国の完成を期待し求めつつ待ち望みたいのです。このことを日々の生活の中でも繰り返し祈りに覚えつつ、歩んでまいりましょう。

『心配するのはやめなさい』
ルカ書12章22節-34節
2007年 3月18日(日)

 今日の箇所は前の話「金持ちの農夫の譬話」との関連で記されています。この農夫の畑は、豊作であって、非常に沢山の穀物が収穫されたがそれをしまって置く所がない、と言って心配していた、というのです。ここに、心配をする、思いわずらう、というのが、必ずしも物質的に満たされない人がする、というのではないのです。
 ここでイエス様は、自然界の二つのもの、すなわち、からすと野の花を引き合いに出して、神様の恵みに気付かせようとしています。イエス様はここで、このような野の花は、あの栄華を誇ったソロモンの着物よりも遥かに美しいと言います。何げない自然を見る時、私達は神様の恵みの大きさを教えられます。また、カラスの事が言われています。人々に嫌われ、忌むべき鳥でさえ、神様は養っていてくださるのだ、ということを言おうとしているのではないでしょうか。
 私達は、自然を見る時、神様の恵みをいろいろ教えられます。そして、人間は、その自然の中でも、最も価値ある者として創造されたのです。この私達に神様は、からす以上の恵みを下さらないはずはない、野の花以上に養って下さらないはずはない、と言います。
先週ウェストミンスターの教理問答の最初の質問「人の主なる目的は何か」に、この問答集では「人の主なる目的は神の栄光をあらわし,神を永遠に喜ぶことである」と答えているとお話をしました。
 私達が、日常の思い煩いから解放される唯一の道も同様に、「神の栄光をあらわし,神を永遠に喜ぶこと」であり、神様に委ね、神様のみ心を求めるならば、私達に必要なものを神様は必ず備えて下さるのです。
 私達も、いろんなことで思いわずらったり、あくせくしたりすることがありますが、常に創造者なる神様が私達をこよなく愛して下さり、養って下さることを信じ、神様にすべてを委ねることによって、思い煩いから解放されて歩んでまいりたいと思います。

『神の前に富む者』
ルカ書12章13節-21節
2007年 3月11日(日)

 ある人が、イエス様の所に、遺産相続の問題をもちかけます。ところがイエス様は、彼の要求を拒否しています。それはもっと重要なことに目を向けさせようとしたからでした。この男にとって当面の、そして最も重要な問題は、遺産のことでしたが、イエス様は、それよりももっと重要なことがある、と言います。それは人間の命ということです。人の命は、持物によらない、とイエス様は言います。
 ここでイエス様はあるたとえを話されます。人間の生命が永遠でなく、死の時は人間には知らされず、死は、人間の命とその生前の努力が一瞬にして無に帰せられる、ということが警告されています。
 人間は何のために生きるのでしょうか。人間にとって食糧は確かに大切なものです。しかし、物が豊かにあれば充実した生き方ができるでしょうか。多くを蓄え、たくさん働いて稼ぐことが悪いというわけではありませんが、物を沢山蓄えるということそのものが目的となってしまう危険があります。そうなると、人間の生き方は、もう物に支配されているのです。
 人間は被造物であって、その命は永遠ではありません。死からは、決して逃れられず、その時がいつ訪れるかは、神様以外には分かりません。命は神様の所有物です。私達が今生かされているのは、この神様のみ旨によるのです。その神様が私達に求めておられるのは、私達の魂を支配するこの神様により頼み、この神様に従って生きることです。これが人間は何のために生きるのか、ということの答えです。神様を信頼して生きる、神様のために生きる、神様に従って神様を喜んで生きる者の魂を、たとえ死んでもその先に神様は永遠の命を与え、永遠の神の御国で住まわせてくださるのです。
 地上で自分のために宝を積む者、人々の前に富むものではなく、この神様のために宝を積む者、神様の前に富む者でありたいと思います。

『この方を恐れなさい』
ルカ書12章1節-12節
2007年 3月 4日(日)

 イエス様の行く所には常に、多くの群衆が集まりましたが、ここではその群衆にではなく、まず弟子たちに語り始めました。イエス様が弟子たちに教えられたのは、「偽善に気をつけなさい」ということでした。ここで引き合いに出されているのは、パリサイ人です。彼らは、神様の前に、また人の前に正しい者だ、と自認していたのです。しかし、一皮めくれば、他の人と何ら変わりはない罪人でした。
私達は皆、欠けのある罪人です。しかし、イエス様はありのままの私達を受け入れて下さるのです。神様は、私達のどんな小さなことも知っておられます。アサリオンとは、当時使われていたローマの銅貨で、最も小さな単位でした。そのような無価値なすずめさえも、神様は養っておられるのです。
神がこのように私達を養ってくださるので、「恐れるな」と言います。イエス様は「殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい」といわれ、そのあとでは、「恐れるな」というのです。「恐れなさい」といいながら、最後には「恐れることはない」といわれるのです。私たちが本当の恐れ、恐怖から解放されるのは、恐れるべき方を真に恐れることによって、その方から「恐れることはない」といわれて、はじめて私たちは一切の恐怖から解放されるということなのです。
私たちが真に恐れなくてはならない方は、その方の前に立ったならば一切のわれわれの偽善的な行為も思いも暴露されてしまうような方です。その方は私たちのすべてのことを知り尽くし、頭の毛一本一本までも数え尽くすほどにすべてを知り尽くして、その上で受け入れてくださるのです。そういう愛の方を信じる時に、私たちは恐れから解放されるのです。本当に恐れなくてはならない方は、このようにしてわれわれを愛してくれる方なのです。私達も、真に恐るべき方を恐れることによって、この世の恐れから解放されたいと思います。