ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2007年4月]を短くまとめてのせています。

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『束縛からの解放』
ルカの福音書 13章10節-21節
2007年 4月29日(日)

 神様がこの世界を6日間にわたって創造なさり、7日目わざわざ設けて、その日に休まれたということから、安息日が定められました。7日目ごとにその自分の仕事を中断し、神様の業、この世界を創造された6日間を思い起こすのです。安息日には人間の業を休んで、神様のことを考え、賛美し、感謝する日なのです。神様を礼拝し新しい力を頂いて次の1週間に備えるというのが本来の意味なのです。神様の事を深く覚える休息こそ、私達は本当のやすらぎを得られるのではないでしょうか。
 ところがやはり人間は極端に傾く傾向があるのでしょう。安息日を、休む日、神様を思う日というよりは、一切の労働をしてはいけない日にしてしまったのです。それに対してイエス様は「偽善者たち。」(15,16節)と戒めます。そして群衆はこぞってイエス様のいわれたことに賛同し、反対していた者たちはみな、恥じ入ったというのです。
 私達は神様が定めてくださった安息日を、人を縛る日にしてしまいます。しかしあらゆる束縛からの解放してくださる日こそ安息日です。今は土曜日ではなく日曜日が私たちの安息日です。それは、罪に汚れたこの世界をイエス様お一人が十字架を背負い、解放してくださり、そしてその完成として三日目に、つまり日曜日の朝によみがえり、新しく私たちを創造してくださる、造り替えてくださるということを示してくださったからです。
 私たちは、失敗、疲れ、悲しみ、体と心の痛み、そして悪魔であるサタンと罪といった、あらゆる私たちを縛るものからイエス様は自由に解放してくださいます。そして安息日はイエス様が解放を宣言してくださった日であることを覚えましょう。ヨハネ8:32に「真理はあなたがたを自由にします。」とあります。解放されていないという方、聖書にある真理を自分のものとして、イエス様に信頼して自由を勝ち取りましょう。イエス様に、あらゆる束縛から解放していただこうではありませんか。

『神様の忍耐』
ルカの福音書 13章1節-9節
2007年 4月22日(日)

 前半に記されている二つのから、当時のユダヤ教にも因果応報的な考え方が背後にあったことがわかります。しかし、イエス様は1節の事件に対して言った3節の言葉と全く同じ言葉を5節でも「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」と言います。イエス様はあらゆる迷信的な「因果応報」をキッパリ否定されるのです。
 災難を受けようと受けまいと、それは直ちに罪の結果という訳ではありません。
 罪ということからすれば、すべての人が罪を犯しているのです。むしろ、それぞれは、災難を受けた者をとやかく言うのでなく、自分の罪を認識して、悔い改めるべきだ、とイエス様は言われるのです。そして神様は、私達が悔い改めるのを忍耐して待っておられるのです。そのことを言うためにイエス様はここで、この譬え話をしたのです。
 この譬えで「実を結ぶ」というのは、神様に従って生きる、神様との正しい関係に生きる、ということです。しかし私達は、必ずしも、神様との正しい関係に生きてはいません。本来、切り倒される存在かも知れません。しかし、救い主イエス様は、そのような私達のために、神様に執り成して下さっているのです。しかも「木の回りを掘って、肥やしをやってみますから」(8節)とあります。神の目から見て、本当に申し訳ない歩みしかできていない者に、特別な配慮をして下さっているのです。私達は、私達を愛し、忍耐強く待って下さっているイエス様の姿を見ることができるようになりたいと思います。その愛に答えるべく自分たちの生き方を反省し、神様との正しい関係を求めていくこと、それが実を結ぶことでしょう。そのような実を結ぶことを、神は忍耐をもって待っておられるのです。
 神様の愛に気付き、その愛に応えるべく、神様の忍耐に応えるべく、自分たちの罪を、そして生き方を悔い改め、神様との正しい関係を求め続け、実を結んでまいりましょう。今週も神様にますます従う歩みを続けてまいりましょう。

『火を投げ込むため』
ルカの福音書 12章49節-59節
2007年 4月15日(日)

 イエス様は「わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです」と言われます。ここで言われている「火」とは何でしょうか。ここでの火というのは焼き尽くす火ですから、直接的には裁きを表す言葉です。そしてイエス様が「その火が燃えていたら」と願っていますのでそれはただの恐ろしいものではなく救いを含んだ裁き、あるいは裁きを通しての救いだといえるでしょう。
 50節には「わたしには受けるバプテスマがあります」といっていますが、これはご自分が十字架で死ぬということを指しております。つまりイエス様は、裁きがなされるために、「バプテスマを受けねばならない」つまり十字架で赦しと救い完成させなければならないというのです。
 さて、54節以降を見てみると、分かりやすいたとえ話で人を引き付けておきながら「偽善者たち」と続けます。「今のこの時代を見分ける」ということは、今という時代というものを神の終末の裁きが切迫している時として、受け止めようとしないのかということです。そしてイエス様は「何が正しいかを判断しないのですか。」と続けます。「正しい判断」とは何でしょうか。58、59節を読むと、「和解するよう努めなさい」とあります。ここでは自分を訴える者と何よりも和解することが大事なことで、それが「正しい判断」だというのです。
 イエス様は十字架にかかり、我々の罪を赦すと約束してくださいました。その赦された私たちが、イエス様によって示された愛に生きる事で平和をもたらす事が、託されているのではないでしょうか。それはお互いを赦し受け入れる事から始まります。そして、それはイエス様によって届けられる聖霊の導きによってのみ、私達は神の愛に生きる事が出来るのです。是非、神様と、イエス様と、聖霊様と共に歩んでまいりましょう。そして、キリストの愛による平和が少しづつであっても広がっていくよう、祈り求めつつ今週も歩んでまいりましょう。

『大喜びで』
マタイの福音書 28章1節-10節
2007年 4月 8日(日)

 イースター、おめでとうございます。
 死んだはずのイエス様を居ても立ってもいられずに見に来た女性たちがいました。しかし、主の使いに「イエス様はここにはおられない。よみがえられた。」と告げられ、また主の弟子たちにこのことを伝えるように、と告げられました。これを聞いた女性たちは急いで、弟子たちのことへと走りました。8節に「彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、」とあります。恐れと喜びが交錯しています。悲しみのうちにあった彼女たちでしたが、よみがえられたことを聞いて、大きな喜びがわき上がりますが一方で、恐れもあり、どうしてよいか分からないような状態だったのでしょう。そういう彼女たちに復活されたイエス様は出会ってくださったのです。9節に「イエスが彼女たちに出会って、「おはよう。」と言われた」とありますが「おはよう」と訳されている言葉は口語訳では「平安あれ」となっています。よみがえったイエス様は変わらずに普通のあいさつの言葉として普段どおりのお声かけをしたとも、心配することはないという意味で「平安あれ」とお声賭けをしてくださったとも考えていいでしょう。直訳では「喜べ」とも訳せますので、イエス様は、迷いのある彼女たちに遠慮なく「喜べ」と言ったのかもしれません。
 よみがえられたイエス様にはガリラヤにお会いできる、とありました。ガリラヤはイエス様が弟子たちと共に神の国の福音を伝え始めた場所です。復活の主と共に、再び、この神様の救いの出来事を伝えるように、この喜びを伝えるようにと、主が告げられたのです。私たちはこのイースターの礼拝で復活の主を喜び、そして伝えるのです。タイトルにも上げましたが、ただの喜びではなくて、大喜びいたしましょう。私たちの主イエス様は罪と死に勝利されました。この方を救い主と信じて、永遠の命にともに歩んでまいりましょう。そして私たちも復活の主と共に、このことを伝えていきましょう。

『この方は、どういう方なのか』
マタイの福音書 21章1節-11節
2007年 4月 1日(日)

 受難週の最初の日に良く読まれる聖書の箇所が、イエス様がエルサレムに入城される場面の箇所です。イエス様と弟子たちがエルサレムへ近づいていた時のことです。
イエス様が弟子たちに「ろばの子」を連れてくるように命じました。「ろばの子」は、神様への献げものとしてふさわしくないものとされていました。まるで私たちのことではないでしょうか。私たちの教会学校は「ろばの子ひろば」といいますが、子供達だけが「ろばの子」なのではなく私たち大人のことも含んだ皆さん一人一人のことでもあるのです。神様に献げるのにふさわしくなかった「ろばの子」でしたが、イエス様はそれを解き放ち、ご自分のもとに連れてこられたのです。同様に、イエス様は私たちをそのようにして罪から解放してくださり、ご自分のもとにお招きになったのです。
 ところで、イエス様は弟子たちが「ろばの子」を連れてくるときに『主がお入用なのです。』と言うように言います。なぜイエス様は神様に献げるのに値しない「ろばの子」を連れてくるように言ったかというと、イエス様が必要とされているから、なのです。「ろばの子」は私たちであるといいましたが、この言葉を私たちにとって、大きな励まし、慰めの言葉です。人は必ず誰かに必要とされていなければなりません。それは生きる力と関わります。そして神様が私たちを必要とされていると知らなければなりません。
 今日は「この方は、どういう方なのか」というタイトルですが、イエス様は私たちを罪と死から救うために十字架上でご自分の命を献げられました。つながれていた「ろばの子」を解放したように罪に捕らわれていた私たちを解き放ち、取るに足らない私たちのようなろばを用いてくださる方なのです。このイエス様、十字架にかかってまで私たちを愛してくださったイエス様に信頼し歩んで参りましょう。