ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2007年5月]を短くまとめてのせています。

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2007年 5月27日(日) 

中野千穂師メッセージ

『自分を低くする』
ルカの福音書 14章1節-11節
2007年 5月20日(日)

 イエス様は8節で「上座にすわってはいけません」といいます。私たち日本人の美徳の一つは遠慮とか謙遜ですから当たり前のことを言っていると思われるかもしれません。しかしこれは上座につくことをあからさまに好むユダヤ人、特にパリサイ人に対する言葉だからこうなったのです。
 この場合イエス様が話されたのは1節からの状況です。安息日で、パリサイ派のある指導者に食事に招かれ、そこに水腫をわずらっている人がいて、律法の専門家、パリサイ人たちに囲まれ、みんながじっとイエス様を見つめているなかで、その水腫の人を癒して帰らせた、そのような状況の中です。そこで人々が上座を選んでいる様子をごらんになって、イエス様は「上座につくな」と言われたのです。上座につくということは、上座について末席にすわっている人を見下す、そして人をさばくということと深い関連があるようです。パリサイ人や律法学者は好んで上座につき、またすぐ人を裁きたがるのです。だからイエス様は上座につこうとするなといわれるのではないでしょうか。
 そしてイエス様は8節からのとことでは、自分よりも偉い人が来た時に、その席をゆずってくださいといわれて、恥をかくことになるから、してはいけないといわれました。ここだけを読みますと、イエス様が処世術、何か偽善的なやりかたを教えておられるように感じられるかもしれません。しかし聖書は処世術とともにそれ以上のことを教えています。究極的には神様との関係において言われているのです。人への高慢が神様に対して高慢につながります。11節「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」という言葉は、神様と人々に対してどうあるべきかを問われているのではないでしょうか。
 「自分を低くする者は神によって高くされる」というイエス様の言葉を謙遜に受け止め、イエス様の歩まれた謙遜の道を歩んで参りましょう。

『ああ、エルサレム』
ルカの福音書 13章31節-35節
2007年 5月13日(日)

 今日の箇所は、イエス様が十字架を目指してエルサレムに向かっている道中起こった出来事です。そのようなときに、何人かのパリサイ人が近寄って来て、「ヘロデがあなたを殺そうと」(31)していることを告げます。それを聞くとイエス様は、「預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえない」(33)と、最期の地の予告をしています。またイエス様は、エルサレムに向かうのは、ヘロデを恐れてではない、「わたしはわたしの道を行く」という決意によることを明らかにしているのです。それは十字架への道です。イエス様は何よりもあのかたくなな民、おごり高ぶった民、選民イスラエルの民に、最後の悔い改めを迫るために十字架の道を歩もうとしているのです。この十字架に鈍感になっていたら、今度こそ本当に見捨てられてしまうというのです。
 さて、34節以降でそのエルサレムについて語っておられます。エルサレムという町はすべてのイスラエルの民が深く関わる土地ですから選民イスラエルを指しています。神様の側では実に忍耐強く愛の手をさしのべてきたというのです。「悔い改めて、わたしの愛に応えなさい」と神様は待ち続けたというのです。しかし選民イスラエルは応じようとしなかった。それは、自分たちはもうすでに救われているという特権意識の上にあぐらをかいていたからです。
 私達自身も、神様に従っている者として悔い改めなくなってしまった時に、滅ぶべきエルサレムになって行きます。自分の正しさを主張する前に、神様の前に罪を悔い改めることができているでしょうか。救いを決めるのは私たちではなく、神様のみです。自分自身の救いを確定した時、実は自分自身が神様に成り代わることこそエルサレムの罪なのです。
 私たちにとって救いとは約束です。その約束の救いをいただけるよう信じ求め続けなければなりません。繰り返す罪を自覚し悔い改め続け、赦されていることに感謝しながら歩み続けてまいりましょう。

『狭い門からはいりなさい』
ルカの福音書 13章22節-30節
2007年 5月6日(日)

 ある人がイエス様に「主よ。救われる者は少ないのですか。」(23)と尋ねます。
 この質問は28、29節を見ると、自分はもう救われた人間、選民であることを鼻にかけて発した問いのようです。私達クリスチャンも選民意識というものに注意が必要です。聖書の選びとは、優れている、善い行いをしている、というのではなく無きに等しいものを選んでくださる選びなのです。また、もう一つの問題があります。それは救いの問題を自分の救いの問題として受け止めていないということです。他人が救われるかどうかなどと考えるのではなく、自分自身の救いの問題を問い続けなさい、というのが聖書のメッセージです。
 さて、その問いに対してイエス様は24節から「努力して狭い門からはいりなさい。」という言葉で答え始めます。神様が私たちを救ってくださるのは、ただ神様の一方的な愛と恵みによります。しかし、イエス様はここで、私たちの努力を求めておられます。「狭い門」というのは、ここでは、場所的な意味、物理的な意味での狭さ、他人を蹴落として入るという狭さではなく、時間的な切迫さ、時間的な狭さを表しています。自分で決めた時間や方法によって戸口を入ろうとしても、それは閉ざされているのです。自己中心の信仰には、戸が閉ざされているのです。神様の救いの御手を受けるには、今、今日という時を逃してはならないと
いうのです。私たちの努力とは、イエス様を信じる信仰という応答です。私たちは「狭い門から入る」という時、今日、今、応答が求められているということをはっきり認識しましょう。その上でその狭い門から入る決断をしましょう。
 また、一度信じたから、もう洗礼を受けたから大丈夫とあぐらをかくというものではなく、イエス様に今も、今日も信頼し続けて歩み続けることが求められているのです。謙虚に、真剣に、神様の前に悔い改めながら今日も信頼し続けて歩み続けましょう。